大分市の中心地にある顕徳町。昔ながらの建物やマンションの立ち並ぶ中にひっそりとある跡石。ここが豊後(大分県)の南蛮文化の重要な発信地となるデウス堂(キリスト教教会)跡地です。
天文20年(1551)、宗麟の招きによって豊後府内を訪れたイエズス会の宣教師
フランシスコ・ザビエルは宗麟の許可を得てキリスト教の布教活動を始めました。
天文22年(1553)には府内教会(デウス堂)が建てられ、毎日ミサとともに
少年合唱隊がオルガンやビオラに合わせて聖歌を歌ったり、宗教劇が演じられました。
こうした宗麟の手厚い保護もあり、豊後府内を中心にキリスト教は急速に広がりをみせ、
弘治3年(1557)には2,000人のキリシタンが、天正8年(1580)頃には豊後の信者は
約1万人を数えたといわれています。
フランシスコ・ザビエルは宗麟の許可を得てキリスト教の布教活動を始めました。
天文22年(1553)には府内教会(デウス堂)が建てられ、毎日ミサとともに
少年合唱隊がオルガンやビオラに合わせて聖歌を歌ったり、宗教劇が演じられました。
こうした宗麟の手厚い保護もあり、豊後府内を中心にキリスト教は急速に広がりをみせ、
弘治3年(1557)には2,000人のキリシタンが、天正8年(1580)頃には豊後の信者は
約1万人を数えたといわれています。
(出典:おおいた市観光ナビ)
引用は以上です。
当時は「天徳町」と呼ばれていたそうです(キリスト教に関する言葉は、昔の中国や日本ではよく「天」という単語が使われています)
それが訛化し、今の「顕徳町」という住所名になりました。
大分県においてキリスト教や南蛮貿易に関することでは
西洋音楽演奏発祥の地
牛乳・かぼちゃの日本初輸入
日本初の本格的な西洋医学式の外科手術
などが知られています。
大名公認の貿易活動と布教活動が、大分における南蛮文化の大きな潮流を生み出しました。デウス堂は、その最重要拠点だったでしょう。
「それほど重要な場所なら、何でこんなマンションに挟まれたところに放置してあるの?」
そう思うでしょう。私も未だに思っています。
ただ、考古学的・文献学的な価値ある発掘場所の確保と駅前都市開発は相反する運命。
買い取りや保護なども試みたようですが、結局今の形になったようです。
ただ、まだ跡地があるだけいいと思います。
他の場所を例に出しますが、その昔イギリスの政策で当時の植民地・インドに鉄道インフラを敷いた時、現場の人らは重要なインダス文明時代のレンガや石とは知らず、それらを「お、良い石があるじゃん」と線路に使用していたそうです。
もったいないというか、「もったいない」のレベルを越えていますね(笑)
後日その地域でインダス文明の遺跡が見つかりましたが、インドでは今も他のインフラの下敷きになり発掘出来ない歴史的遺跡が沢山あるそうです。
失礼、脱線しました。ともかくこの「デウス堂」跡地は大分市の歴史を思う時、時々訪問してみたい場所です。












