明治維新に活躍し、近代日本の礎の一人として挙げられる大隈重信。
一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
大隈重信と言えば、近代日本の政治や財政、教育活動など幅広く尽力し、功績を上げてきた実力家。
また内閣総理大臣に任命されるなど、まさに近代の日本にとってかけがえのない貴重な人物の一人だといえます。
では、大隈重信を構築した人間性は一体どこから来たのか。
数々の功績を積み上げてきた背景には、どのような経緯があったのか。
今回は大隈重信の功績を讃え設立された大隈重信記念館を訪れました。
記念館は2つの施設に分かれます。
1つは大隈重信の人物像やその功績を知れる正面のレトロな白に塗られた記念館。
もう一方は少し離れた大隈重信が生まれ育った生家を復元した旧宅。
ポイント1
大隈重信は勤勉であった?
大隈重信を構築した幼少期の様子をうかがうことができる木造旧宅。
大隈重信をひと言で言い表すなら、勤勉であったことです。
勤勉であった裏付けになるのが2階の勉強部屋。
当時7歳だった頃、重信の母が勉強に集中できるように狭い屋根裏部屋を増築したと伝えられています。
木造の柱から吊るされた1本の豆電球のみ。
その奥に机が一つ置かれているだけで、まさに勉強に特化された空間だと言えます。
両親ともに教育に熱を入れる家庭環境であることも、大隈重信が勤勉である所以であると思います。
(チェックポイント)
●ご利益があるとされるごっつん柱とは?
2階の勉強机の中央の柱。これをごっつん柱というそうです。
幼少期重信が勉強の疲労で居眠りをした際によくぶつかっていたそう。
この柱に頭を軽く当てると、ご利益があるとされ、受験生や勉強を取り組んでいる人にはオスメメのスポットの一つです。
●過去から現代へ伝える写真から読み取れたものとは?
その際に記念撮影として、旧宅の縁側で撮られた1枚の写真。
上記の写真の場で大隈重信を含めた複数の海外実業家や大使が収められています。
当時の明治維新時代に海外から訪れる訪問客を一般家庭に招くことは異色とも言えます。
政治や経済に貢献した大隈重信の人脈や功績があってこそ成り立ったかたちでしょう。
ポイント2
旧宅の構造は生活する際の工夫が計算されていた
蔀という雨、風や日光を防ぐため取り付けられた板状の戸。
季節問わず、当時電気製品がなかった頃の先人の知恵が施されています。
またエアコンがない夏場であるにも関わらず、室内は少しひんやりとした涼しさもあり、柱の構造や部屋と部屋との仕切りがなく熱がこもりにくい作りにも工夫がなされています。
まさに先人たちの知恵を凝らし、自然とどう共存していくかも工夫が施されている構造であると見て取れます。
大隈重信は近代日本を構築した人物の代名詞と呼ばれる中の一人。
生家から少し歩いた本館の一階には重信がどんな人物だったのか、どのような功績を上げてきたのか、時系列のパネルで壁一面に展示されています。
ポイント3
重信の片足は義足であった?
実は大隈重信の右足は義足であったとされています。
当時の外務大臣在任中に反対派の勢力から爆弾を投げつけられ、右足に重傷をおい切断。
その後、義足を使ってでの生活が始まったとされています。
その際に使用された愛用である義足が、一階の展示室に展示されています。
現代ではあまり考えられない当時の過酷さや、政治が大きく移りゆくかたちで生じる治安の不安定さ。
片足を失ってまで、近代日本を築き上げるために尽力した重信の不屈の精神にも圧倒されるところがありました。
ポイント4
早稲田大学創設者は大隈重信だった?
本館2階にあがると大隈重信の数々の実績が展示されています。
そのなかで一際大きく取り上げられているのが早稲田大学を卒業した有名人たちの特集。
大隈重信は現在の早稲田大学の創設者として広く周知されています。
幼少期から教育に対し、堅実に向き合ってきた重信ならではの、熱い教育理念が反映されたかたちとして建設されたのではないかと考えました。
(まとめ)
政治家でありながらも、教育、経済、産業とも密接な関わりで多くの分野で活躍していた重信。
数々の功績を積み上げてきた裏には、幼少期の勉学を通して身につけた忍耐力や精神力が基礎となっているでしょう。
重信の教育理念にもある通り、何かを学ぶことは、どの年代でも挑戦できることです。
どの年代でも学び直せることができるからこそ、強い目的意識を持ち、継続して困難な状況でも粘り強く継続する。
重信の意思は、挑戦をするすべての方々の心の支えたもなりうるでしょう。
(備考)
大隈重信記念館の休館日はホームページより詳細が記載されていますのでご確認のほどよろしくお願いします。
また大隈重信の生家の2階は公開日が限定されているため、訪れる際はご注意ください。










