さあ、甲府五山も中盤に入りました。ということで、今回ご紹介するのは武田家の歴史を知る方なら絶対聞いたことがあるはず「東光寺(とうこうじ)」です。
東光寺はいつ創建されたのかはっきりとは不明ですが、平安時代の密教系興国院という寺院が始まりのようです。その後、鎌倉時代に蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)という南宋(なんそう)の僧侶が臨済宗の寺院として復興しました。
東光寺というと、武田家の印象しかなかったのですが、意外にも歴史は古かったのですね。
その後、武田信玄公の頃に庇護を受けて甲府五山に認定されました。しっかりと「甲府五山」の看板もあります。
やはりこの東光寺といえば、2名の戦国武将の墓が有名になるかと思います。
一人目は、信濃の諏訪地方を治めていた諏訪頼重(すわよりしげ)です。
武田信玄公の異母妹が嫁いでいたので頼重と信玄公は義兄弟の関係にありましたが、信玄公に侵略され降伏したのち甲府に連行されました。そしてこの東光寺に幽閉され自害したということです。
ちなみに、この頼重の娘「諏訪御料人」は信玄公の側室となり、のちの武田勝頼(かつより)公を産みます。相当な美貌をもっていた女性と言われていますね。
もう一人は、武田義信(よしのぶ)公。そう、信玄公の実の息子です。
1565年(永禄8年)、信玄公の長男で家督を継ぐはずだった武田義信(よしのぶ)公が、守役だった飯富虎昌(おぶとらまさ)らの信玄公暗殺にかかわったとして等寺に幽閉されました。信玄公も自身の父親である信虎公を駿河(静岡県)に追放していたため、自身も同じような境遇に追い込まれようとは思いもしなかったはず。これも因果でしょうか。
そして、義信公は諸説あるものの自害もしくは病死したといわれています。信玄公は最後の最後までなんとか助ける方向で考えていたという説もあります。実の息子で、嫡男ですからね。
武田歴史研究の第一人者「平山優」氏はその著書の中で、この「義信事件」といわれる出来事が実は武田家滅亡の始まりだったといわれています。私も納得です。
1582年(天正10年)の織田信長による甲州征伐で諸堂と文書類が、1945年の甲府空襲では再建された本堂が焼失するなど2度の被害に遭ったものの現在残る入母屋造檜皮葺屋根の建築様式を残す仏殿(ぶつでん)は国の重要文化財に指定されています。
仏殿の檜皮葺(ひわだぶき)屋根はとても綺麗に仕上げられています。圧感です。
仏殿の中には山梨県の重要文化財にも指定されている木造薬師如来像や木造薬師十二神将像などが安置されており相当な見ごたえです。
阿弥陀如来像の両側に木造薬師十二神将像が並んでいます。
東光寺庭園は山梨県の指定名勝になっています。
この庭園も蘭渓道隆の作とのこと。
正直、この写真だけでも県から指定される名勝なのが伝わってくると思います。
個人的に武田歴史好きでは無い方も、山梨観光に来られるなら必ず行って欲しいとおすすめできる史跡です。
駐車場も完備しています。是非、是非一度来て見てください。正直載せたい写真がまだあるのが残念なくらいです。
それではこれにて、山梨武田史跡巡り〜甲府五山③「東光寺」〜は終了です。