今回は甲府五山も4つ目にあたる「円光院(えんこういん)」をご紹介します。
武田神社から徒歩12分の岩窪(いわくぼ)町という地名の場所にある円光院ですが、武田信虎公が甲府に移すまで代々武田家が本拠としていた笛吹市石和町にあった清光寺が前身となります。
その清光寺を室町中期に武田信守(のぶもり)公(※「甲府五山③ 東光寺」に登場しました)が、父信重(のぶしげ)の菩提寺として再興し「成就院」と改めました。
その後、信玄公の代になってから現在の地に移されたといことです。
この「円光院」という名称ですが、これは信玄の正室三条夫人(さんじょうふじん)にちなんだものになります。1570年(元亀元年)にこの三条夫人が亡くなり、ここに葬送された時に法名が「瑞巖山円光護持禅院」とされたことから、当院が円光院と改称されました。
こちらは本殿ですね。
ここで三条夫人について少し解説します。三条夫人は名前のごとく京都の出身です。16歳のときに駿河国の今川義元のとりもちにより甲斐国武田信玄公の元に嫁いできました。
大河ドラマに原作にもなった、武田信玄公のファンなら誰しも一度は読んだことがあるであろう新田次郎氏の小説「武田信玄」では、信玄公との仲が歩く悪女的なイメージで描かれていますが、実際は仲が良かったとのことです。
信玄公との間には嫡男義信(よしのぶ)、次男竜芳(りゅうほう)、三男信之(のぶゆき)、長女黄梅院(こうばいいん)、次女見性院(けんしょういん)の5人の子どもがいたのもその証かもしれませんね。
綺麗な椿が咲いていました。京都出身で美人だったといわれる三条夫人にふさわしいですね。
そしてこの円光院の地で三条夫人は今も眠っています。
武田神社からこの円光院に歩いていく途中ちょっと寄り道をすると武田信玄公の墓に行くことができます。
1573年(天正元年)信玄公は、西上作戦の途中病により体調が悪化し、帰途につく途中、信州伊那の駒場にて亡くなりました。その後信玄公の遺言通り、3年の間死が秘密にされました。その間に火葬され、仮埋葬したのがこの墓のある場所だといわれています。
信玄公の墓は長野、愛知、山梨県内などあらゆるところにあったりします。そのうちの一つがこの三条夫人の眠る円光院の近くにあるというのもいいですよね。
信玄公墓所のすぐ目の前の北部幼児教育センターの隅には、「河尻塚(かわじりづか)」というものがあります。
これは、武田家滅亡後、甲斐国の支配を任された織田信長の家臣河尻秀隆の首塚とも屋敷跡とも言われています。ゲートボール場の隅にあって一見わかりずらいです。
信玄公の墓に行かれる際は、この北部幼児教育センターの駐車場に車をとめられます。
円光院に行かれる際は、是非、信玄公の墓と河尻塚にも行かれることをおすすめします。
では、これにて山梨武田史跡巡り〜甲府五山④「円光院」〜は終了です。