武田信義紀行第2回目の今回は、「白山城跡(はくさんじょうあと)」をご紹介します。
またきました、城跡。またあいも変わらず、足元はコンバースで乗り込んできました。先に注意ですが、今回の「山城(やまじろ)」は結構危険というか、危ういものを感じましたので、行かれる方はなるべく誰かと一緒に行ってください、というのも、、、
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森のリアルクマさんが出るそうです。あと、この鉄格子は開けて山に入るのですが、クマが外に出られないようにするためのものなので開けたら必ずしめてください。
前置きが長くなりましたが、さっそく紹介していきます。
この白山城、前回紹介した武田信義館から徒歩30分ほどの距離に登山入口があります。そこから山を登る感じです。
甲斐国志(かいこくし)という江戸時代に書かれた書物では、武田信義公が詰城(つめじろ)として築いた山城とされています。居城という説もありますが、個人的には館も存在していたので詰城かなと思います。
詰城(つめじろ)とは、最終拠点となる城のことです。甲府北エリアでも紹介した「要害城」も飯田河原の合戦で敵が領内に攻め込んできた際、躑躅ヶ崎館の詰城として活躍しています。
当然ですが、館では敵を防ぎきれませんので有事のために、山という地の利を活かした防御施設を設けていたと考えるとわかりやすいと思います。
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今回は平安時代からあると言われている格式高い「白山(しらやま)神社」がある南方面から登って、北の武田八幡宮へ抜けるルートで登山してきました。
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こういった案内図が要所にあるので、これを探しながら道を進んでいけば迷うことはないので安心です。では、さらに進んでいきます。
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この山城は傾斜がきつくて、しかもこいった道がガンガン続いていくので体力の消耗が激しかったです。
ともすると見逃してしまいそうになりますが、こちらが「二ノ丸(にのまる)」になります。名前は二ノ丸ですが、以前も紹介した「曲輪(くるわ)」のことなので、ただの山のひらけた平地にしか見えないのも無理ありません。
それでも本丸に隣接しているので、敵を防ぐ上では重要な役割を果たします。
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この案内図を見ながらでないととどこが何のなのか全くわかりません。w
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続いて本丸(ほんまる)、主郭部です。いわゆる城の中心部にあたります。ここが落とされると城が落ちたことになりますので絶対に死守したい場所ですね。ここには看板が立っています。
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一応絵図もありますが、現在ここまで整備されている訳ではないので、イメージをふくらます材料にしましょう。
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主郭を抜けると、「三ノ丸(さんのまる)」ですが、わからなくて普通に通りすぎて後で気づいて戻り写真を撮りました。w
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信義期以後の時代には、信義公の息子の系統に巨摩(こま)郡武川衆(むかわしゅう)という在郷武士団がいて、その一族の青木氏がこの城を領有し重要な役割を果たしていました。
武田家滅亡の後も、甲斐国を巡って徳川家康と北条氏直(黄梅院の回で出てきた北条氏政の息子です。)が争った際、家康は白山城を修築し北条氏に備えたそうです。結果的には、江戸時代の寛文年間(1661〜1672年)に廃城となり役目を終えたようです。
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コンバースにトレンチコートで山城にいったのは正直正解とは言えませんが、これまでもこのスタイルで登ってきました。せっかくなので記念に載せておきます。w
とにかく、山城を探索するのは楽しくもあり、しんどさもあり、色々な感情がぐるぐるしますが、当時甲斐源氏武田氏がここにいたのかと思うと不思議な感覚になります。それに山の神聖な空気にも癒されますね。
では、これにて山梨武田史跡巡り〜武田信義紀行②「白山城跡」〜は終了となります。ご覧いただき、ありがとうございました。