武田信義紀行もついにラストとなりました。最後は韮崎市神山町鍋山にある「願成寺(がんじょうじ)」をご紹介します。
武田八幡宮とは徒歩21分ほどの距離なのでウォーキング感覚で行ってもいいですね。ちなみに、駐車場はありますが、車1台分の農道みたいなところを通るのでちょっと注意が必要です。
願成寺は771年(宝亀2年)、権大僧都心休了愚法印が京都祇園寺の末寺として創建されました。初め草庵で、928年(延長6年)お堂を建立、地蔵菩薩を安置して寺院としての願成寺が成立しました。
一時衰退したものの、平安時代後期に武田信義公がこの韮崎の地に館を構えたのちこの寺を祈願所として庇護しました。
山門は1662年(寛文2年)に建設されたものですが、1864年に暴風雨で倒壊。平成2年に信義公遺徳顕彰会により再建されたそうです。ただ、この鳳凰山の山号額は様々な難を免れて今に伝わっています。
山門を抜けると正面には本堂が見えます。
前の本堂は老朽化により平成27年に建て替えられました。
戦国時代には、信玄公の甥の俊虎大和尚が天台宗から臨済宗に改宗し、続いて1638年(寛永15年)には更に曹洞宗に改宗されました。
奥に進むと武田信義公の墓所があります。
向かって中央が信義公、左が信義公夫人、右が乳母(うば)と言われています。乳母とは母親に代わって子育てをする女性のことです。
このお堂の中に重要文化財「阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)」が安置されています。拝見には予約が必要なので見られませんでしたが、平安時代末期〜鎌倉時代初期の作品と伝わっています。
このお堂の前に不思議な石が。
特に効果は期待することなく、一応触れておきました。w 
このお寺を訪問したときは、私一人でとても静かに参拝させていただきました。
源平合戦で活躍したものの、鎌倉幕府から危険視され衰退してしまった武田信義公ではありますが、この韮崎が甲斐武田にとって強くゆかりのある土地だと思うとこれまで武田=甲府というイメージできた私にはとてもいい勉強になりました。
正直、信玄公時代の武田遺跡に比べるとだいぶマイナーですが、もし韮崎にお越しの際は是非、武田信義公の史跡を巡っていただきたいです。
ただ、白山城に登山される場合は、午前中もしくは午後一で行ってください。日暮れどきは必ず避けてください。これだけは改めて書かせていただきます。
ではこれにて、武田信義紀行全4回は終了となります。ご覧いただき、ありがとうございました。