武田家終焉の地ラストは、勝頼公が最後たどりつけなかった、「栖雲寺(せいうんじ)」をご紹介します。
栖雲寺は前回ご紹介した景徳院から車で8分ほどの場所にあります。8分といっても結構な山道ですので、夕方は避けての訪問がいいかと思います。
どうやらauと楽天は携帯が通じないようです。お寺がwi-fiを用意しているとの情報が公式HPに掲載されています。2社の携帯をご利用の方は注意してください。
標高1050mの天目山山中にある栖雲寺は1348年(貞和4年/正平3年)、業海本浄という住職により創建されました。ただ最初は「護国禅寺(ごこくぜんじ)」という名前でした。
この天目山もとは「木賊山(とくさやま)」と呼ばれていました。「木賊」はこの地の地名にもなっています。いつしか天目山とよばれるようになったのだとか。
お寺の前からみる景色はこんな感じです。正直麓も見えないくらい山です。
1416年(応永23年)の室町時代中期、「上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱」という政治闘争が起きます。簡単に説明します。鎌倉公方(かまくらくぼう)という関東を治めるために室町幕府が設置した機関がありました。そしてそれを補佐する関東管領(かんとうかんれい)という役職の上杉禅秀という人が、鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)に反乱を起こして、結果負けた事件です。
この上杉禅秀の乱で、時の甲斐守護武田信満(のぶみつ)公が上杉禅秀方に味方した結果幕府から討伐され、天目山で自害して果てました。信満公は、信玄公から数えて6代ほど前の方です。
政治闘争というのは時の時勢を読み誤ると一気に滅亡したりしますから、難しいところですね。山中で自害した遺体はこの寺に運ばれて葬られたようです。
こちらが信満公のお墓です。現代に比べてかなり小さいですね。
その後、戦国時代になってからは信玄公から庇護を受け、軍配・軍旗・陣中鏡などが奉納されたとのことです。
そして、前回と関わる話ですが、勝頼公はこの天目山を目指し、ここを最後の地としようとしていました。信満公に何か通ずるものを感じていたのでしょうか。しかし、織田方の軍勢により行く手を阻まれたため天目山にたどりつくことはありませんでした。
武田家が滅亡したのち、一時庇護者がいないため衰退しましたが甲斐領主となった徳川家康により再興されました。しかし、明治時代になると再び衰退し、大正時代には再び住職がいなくなります。
こちらの本堂は江戸時代に建てられたもので、甲州市指定有形文化財になっています。先ほどご紹介した武田信満公のお墓も有形指定文化財です。
本堂の近くに面白いものが。「蕎麦切発祥の地」。
それまでのそばがきから、うどんに学び切って食べたのは、元の杭州で麺打ち技術を学んだ業海本浄がはじまりと伝わる。
禅宗では料理も修行の一つとされています。また杭州は南宋時代から麺屋や多くの飲食店が営まれていた都だったこともあり、業海の杭州生活時に学んできた中国文化の一つに麺づくりがあり、帰国してその技術を広めたと伝わっております。業海に参じた雲水と共に蕎麦切りを食しながら、隠遁生活を極めた中峰明本の教えを徹底して守り、この地この禅庭で修行をしていたのでしょう。(天目山栖雲寺公式HPより)
というわけで、実際のところどうなのかわかりませんが、ここへ来る途中の甲斐大和駅の近くにあるお蕎麦屋さんはとても美味しいです。子供の頃にいって今でも美味しかったのを覚えています。
少しわかりづらいですが、これは栖雲寺宝篋印塔(ほうきょういんとう)といって墓地に造立される石塔のことです。こちらは県指定有形文化財となっています。
今回散策はしませんでしたが、裏山に禅庭(ぜんてい)という庭があって拝観料300円で散策できます。宝物館も観る場合は500円で庭と宝物館をあわせて見れます。時間のある方はぜひ観ていかれてはどうでしょうか。
さて、3回にわたってご紹介しました武田家終焉の地。私も小学生の頃に行ったきりで、大人になって改めて来てみると感じるものが全く違いました。
今回ご紹介した史跡は車でないとちょっと来ずらい場所ですが、山梨をイレギュラーに散策したい方やドライブも兼ねて武田家の史跡を巡りたい方にオススメです。甲斐大和駅前でお蕎麦を食べてみてもいいかもしれませんね。
では、山梨武田史跡巡り〜武田家終焉の地③「勝頼が目指した地 栖雲寺」〜を終了とさせていただきます。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。