伊藤野枝(いとうのえ)は明治から大正にかけて生きた女性活動家です。現在の福岡市西区に生まれた野枝は女性解放運動家として活動する一方で、結婚制度を否定し不倫を行うなど奔放に生きた人物として伝えられています。
激動の時代の中で、最期は憲兵隊により虐殺され生涯を終えた野枝。2023年は野江の没後100年にあたります。
そんな野枝の生涯を描いた舞台が『日輪の夢』です。
会場は福岡市にある『福岡市科学館サイエンスホール』。
物語は親が勝手に決めた婚約を野枝が破棄し、上京するところからスタートします。
それまでの『女性』の価値観から脱却し、海外で活動することも夢にみていた野枝。そんな野枝が東京で訪ねたのは、高等女学校時代に教えを受けていた教師の辻潤でした。
野枝は辻の家で暮らし、女性誌『青鞜(せいとう)』の編集者となり活動します。一方で、次第に辻との仲も深まり二人は夫婦になります。
子宝にも恵まれた二人でしたが、そんな中で野枝は社会主義思想家の大杉栄に出会います。
辻の浮気をきっかけに離婚した野枝は、大杉と関係を持ちますが大杉には神近市子という愛人がいました。
そのような中でも次第に関係を深めていく二人でしたが、次第に社会主義者として憲兵から目をつけられるようになります。
そして関東大震災の混乱をきっかけに二人は殺害されてしまいました。
奔放に生き、既存の価値観に反抗するように生きた伊藤野枝。
しかし本作で描かれていたのは、そうしたイメージの先にある人間としての伊藤野枝の姿でした。
決められた婚約に納得できず、自分が描いていた夢を語る無垢な少女のような笑顔。
仕事に向き合いながら、その一方で子どもに対して見せる温かい母親としての表情。
故郷で過ごす平穏な時間の中で、どこか自分の死を覚悟しているような切なさと穏やかさを合わせた声。
奔放という言葉のイメージとは裏腹に、本作で描かれた伊藤野枝は人間らしい表情を見せる等身大の人間でした。
そんな伊藤野枝を演じたのは女優の『大國千緒奈(おおくにちおな)』さんです。
女優としてさまざまな映画やドラマに出演された大國さんは、現在は福岡を拠点に活動しています。
本作でも既存の価値観に縛られず、自分の心に忠実に生きる野枝の強さと愛情を見事に表現していました。
特に子どもたちと触れ合う場面の演技は、野枝という人物が観客と変わらない一人の人間であることを強く感じさせる自然体なもの。
実家を飛び出す時の、まだ世間を知らない少女の感情から自分の死を予感しているような成熟した感情までの微妙な変化を丁寧に演じ分けていました。
作中のキーワードとして登場するのが『新しい女性』という言葉。
それまでの価値観と異なる女性という意味ですが、考えてみれば実に漠然とした言葉です。
もしかしたら野枝自身も、その意味を完全にはわかっていなかったのかもしれません。
自分の思いに忠実に生きる。そうした野枝の信念が、たまたま時代の中で求められていたものに合致したという側面もあったと考えられます。
しかしさまざまな面で閉塞感あふれる現代社会において、自分の信念を貫き声を上げ精一杯生きた人間が確かにいたこと。
それは今を生きる私たちにとって大きな励みになるのではないでしょうか。
そんなことを感じさせてくれるエネルギーに満ちた作品でした。