菅田天神社
観光・その他 山梨県甲州市塩山上於曽1054   [地図]
6
K-Style
2023-03-14 18:38
山梨武田史跡巡り〜塩山エリア①「菅田天神社」〜
観光・レジャー 山梨県・菅田天神社
観光・レジャー 山梨県 菅田天神社
今回から少し足をのばして、甲州市塩山エリアの史跡を3つご紹介します。
第1回目の今回は、甲州市塩山上於曽(かみおぞ)にある「菅田天神社(かんだてんじんじゃ)」です。
ここは駐車場がないので、甲州市市役所にとめて参拝させていただきました。
本殿までの距離がなにげに長い参道です。
菅田天神」という名前を聞いて、ある人物が浮かんだ人は感がいいか、結構な歴史好きです。1004年(寛弘元年)、学問の神様「菅原道真(すがわらのみちざね)」を祀ったことから菅田天神と呼ばれるようになりました。
842年(承和9年)に国司(こくし)藤原伊勢雄により創建されたようです。国司とは簡単にいうと今でいう県知事です。当時は、選挙などないので中央(京)から派遣されてきました。結構な独裁政治ですね。
ちなみに、この藤原伊勢雄という人物、日本史の教科書や入試で出てくる「藤原四子(よんし)」の南家「藤原武智麻呂(むちまろ)」の孫にあたる人物です。かなり名家の出身です。
朱く塗られた門がとても印象的でした。
奥の神門(じんもん)の両側には随身像(ずいしんぞう)が安置されています。随身像とは、神門に置かれて、神社を警護するものとして造られた像のことです。
元は、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)という甲斐源氏の祖にあたる人物から崇敬され、鎌倉時代には武田家2代目当主武田信光(のぶみつ)公により社殿が造営されたようです。
武田信虎公が躑躅ヶ崎館に本拠を移したのち、ここの方角が鬼門(きもん)にあたるようになったため手厚く信仰されたのだとか。その証か、甲斐国内の神官(しんかん)は躑躅ヶ崎館の近くにある府中八幡宮に参勤が義務付けられていましたが、菅田天神の神官は参勤が免除されていたそうです。
本殿が見えてまいりました。ここの神社は全体が古木や大木で覆われているため一層増して神秘的な雰囲気をあじわえます。
本殿にも「菅田天神社」の文字が見えます。
実はここの神社で一番有名なのが、「小桜韋威鎧兜大袖付(こざくらがわおどしよろいかぶと、おおそでつき)」です。
この鎧は、先ほども出てきた武田信玄公のずっと前の祖先「新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)」が父親源頼義(よりよし)から譲り受けたもので代々、甲斐源氏の家宝とされてきたものになります。源頼義は前九年の役(ぜんくねんのえき)という出来事で耳にしたことがある方もいるかと思います。
武田家が滅亡した際、当主武田勝頼公の嫡男信勝(のぶかつ)公がこの鎧を着用し家督譲渡をとりおこなった上で、父子ともに天目山にて自刃したということです。その後、この鎧は家臣の田辺左衛門尉(さえもんのじょう)により一時隠されて、のち菅田天神社に奉納されたようです。
通常公開はされていませんが、ポスターに載っていたのでご覧ください。
甲斐国志という書物によると、この鎧は武田家滅亡の際、近くにある向嶽寺(こうがくじ)に埋められたという話もありますが、実際の調査によると埋められた形跡はないそうです。
こちらが鎧が奉納されているところです。新羅宮(しんらぐう)と書いてあります。
ちなみに、本殿のすぐ近くには大願成就の「なで牛」の銅像があります。自分の身体の悪いところをなでた後、牛の体の同じ箇所をなでると不調が牛に移って治ると言われています。私は、なんとなく頭をなでて終わりました。w
ここの神社の一番のおすすめポイントは先ほども書きましたが、とにかく大木に覆われた荘厳な雰囲気をあじわっていただきたいです。
では、これにて山梨武田史跡巡り〜塩山エリア①「菅田天神社」〜は終了です。
Success!