信玄堤
観光・その他
山梨県甲斐市竜王1886−4
[地図]
山梨武田史跡巡り〜甲斐市エリア①「信玄堤」〜
観光・レジャー
山梨県・信玄堤
今回は、山梨県甲斐市にある史跡を2回に分けてご紹介します。
まず一つ目は、学校の教科書でも聞いたことがあるはず「信玄堤(しんげ
んづつみ)」になります。
一般的に「信玄堤」というと山梨県甲斐市竜王にある「信玄堤公園」を指しますが、実際には他の場所にも構造物等がありますので、それらも含めて一つの治水対策システム全体で信玄堤ととらえた方が良いかと思います。
ことは1542年(天文11年)、釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)が氾濫したことをきっかけに、それまでも川が氾濫するたび家や畑を流して甲府盆地を悩ませていた水害に信玄公が対策に着手したのが始まりです。ただ、正確な始まりの時期はわかっていないようです。
結果的にはおよそ20年ほどかかって完成したので1562年(永禄5年)前後には一応完成に至ったようです。
最初にこの信玄堤のシステムを超簡単に説明すると、「川の流れを変えて、水の勢いを殺して、本流に戻す」です。詳しく説明していきますね。
山梨県の西部南アルプス市方面から先ほど出てきた御勅使川という川が甲府盆地に向けて流れていました。
同じく先ほど出てきた釜無川という川が途中他の川と合流しながら、甲府盆地の南市川三郷町(いちかわみさとちょう)付近で笛吹川(ふえふきがわ)と合流して富士川になり静岡まで流れています。
この御勅使川と釜無川が合流する地点で水害が発生していました。そこで、合流する場所を自分たちが都合よく変えてしまえば良いと考えたのです。
まず、御勅使川の流れを「石積出し」で2分します。このうち一方を北に向けて新たな川流れを作ります。石積出しは字のごとく石を積み重ねた石垣のようなものを想像してください。
この新たな川流れ(新御勅使川)を今度は将棋頭(しょうぎがしら)でさらに2つに分けます。さらに分けられたうち北の流れは上から流れる割羽沢川(わりばさわがわ)に流れ込みますが、再び新御勅使川と合流します。将棋頭も石垣のように石を積み重ねたもので、上空から見ると将棋の駒のように見えることからこの名がついたようです。
そして新御勅使川が釜無川と合流する地点に、十六石(じゅうろくいし)というとても大きな16個の石を置いて合流地点を守り、二つの川が必ず合流して高岩(たかいわ)にぶつかるようにしました。
この高岩がポイントとなります。水害地域よりも北側にあり、20〜30メートルもの高さがある断崖絶壁のがけに合流した水流をぶつけるようにしたことで、これまで被害を受けていた場所には水が行かなくなったというわけです。
こうして高岩で威力が落ちた水の流れを信玄堤の堤防や聖牛(せいぎゅう)を通してさらに勢いを落とさせて緩やかに本流に戻すという仕組みです。
信玄堤というと、まずこの聖牛を思い浮かる人も多いはず。牛のように見えることから名付けられた木製のテトラポッドです。聖は「超」の意味と言われるので、「超牛」ということでしょうか。w
堤防は現在工事中でした。改修等重ねながら今も水害を防いでくれているのですね。
このように信玄堤とはこの堤防一箇所のことを言うのではなく、一つの治水システム全体のことを呼ぶのがわかっていただけましたでしょうか。これだけのことを500年近く前に作り上げた信玄公、より偉大に見えます。
ちなみに、信玄堤が完成した際、堤防沿いに「竜王河原宿(りゅうおうかわらやど)」なるものが作られました。信玄堤周辺の管理などのために必要となる労働力確保として設置された宿です。諸役免除の特権を与えて移住者を募ったとのこと。
なんだかんだ言いながらも、信玄堤といえばこの信玄堤公園が一番観光スポットになると思います。史跡をみるだけでなく、散歩やバーベキューを楽しむ人も結構いますよ。
信玄堤のすぐ近くには三社神社があります。創建年代は不明ですが、釜無川の氾濫を鎮めるための神社で1000年以上も前からあるようです。
「おみゆきさん」と言う水防祈願祭が行われることでも有名です。
やや長くなりましたが、武田史跡観光スポットとしてはぜひ寄って行かれてることをオススメします。ただ、駅からはかなり離れているのでなるべく車で行った方がいいです。。。
ではこれにて、山梨武田史跡巡り〜甲斐市エリア①「信玄堤」〜は終了です。