山本覚馬・八重邸宅跡
観光・レジャー
京都府京都市中京区河原町通御池下る下丸屋町394
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松下村塾の四天王・吉田稔麿の終焉の地
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京都・河原町御池の交差点の南西角には「山本覚馬・八重邸宅跡」の石碑が建てられています。
この石碑、北東側からは「山本覚馬・八重邸宅跡」とあるのですが、北西側には「吉田稔麿殉節の地」とあります。
この石碑、北東側からは「山本覚馬・八重邸宅跡」とあるのですが、北西側には「吉田稔麿殉節の地」とあります。
吉田稔麿は幕末の長州藩士。吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一とともに松陰門下の四天王とされました。
この「吉田稔麿終焉の地」とされる場所は、「池田屋事件」のあった池田屋から北西へ300メートルほどの場所にあります。さらに北東に100メートルほど進むとホテルオークラがありますが、ここには幕末に長州藩邸がありました。
新選組がもっとも活躍した事件の跡地「池田屋騒動之址」
「池田屋事件」は新選組が多くの過激な尊王攘夷派の志士を殺傷・捕縛した事件で、 新選組が名をあげた一方で、これにより明治維新が遅れたといわれます。 事件の現場である池田屋は三条木屋町にあった旅籠です。事件後に廃業し、1960年頃までは当時の建物が残っていたそうですが、その後取り壊されました。 建物を残しておけば、いい環境資源になったでしょうに… 跡地にはテナントビルやパチンコ店が転々としましたが、現在は新選組をテーマにした居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」が営業しています。 「はなの舞」の店前に
https://freelife.ne.jp/article/6393
池田屋事件の際、吉田稔麿も出席していました。一説によると事態を長州藩邸に知らせに走り、門前で自刃したとか、池田屋に向かおうとする途中で討ち死にしたとされています。
石碑は池田屋と長州藩邸との中間地点にあり、池田屋〜長州藩邸〜終焉の地へといたる吉田稔麿の足取りをリアルに感じさせてくれるものになっています。