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池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎の寓居跡

まちフォト
京都府・河原町・烏丸・大宮
古高俊太郎は、幕末の尊王攘夷派の志士。近江に生まれ、京都に出て梅田雲浜に弟子入りし、尊王攘夷の志士と交わります。
道具屋の「枡屋」を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗ると、長州藩の間者として諸大名や公家の屋敷に出入りし、情報活動と武器調達にあたりました。
道具屋の「枡屋」を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗ると、長州藩の間者として諸大名や公家の屋敷に出入りし、情報活動と武器調達にあたりました。
やがて新選組に捕縛され、土方歳三らから厳しい取調べを受けます。過酷な拷問を受け、自白した内容は「強風の日を選んで御所に火を放ち、佐幕派の中川宮を幽閉、佐幕派の大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去る」というものでした。
これを阻止するため、新選組が池田屋を襲撃したのが「池田屋事件」です。
これを阻止するため、新選組が池田屋を襲撃したのが「池田屋事件」です。

四条河原町の真橋通にある「古川俊太郎邸跡」がその枡屋の跡地。現在は日本料理の「志る幸」(しるこう)となっています。

古高はその後、六角獄舎に収容され、禁門の変の際に他の囚人とともに斬首されました。
1891年(明治24年)に正五位を追贈され、京都市左京区の霊山護国神社に墓があります。
1891年(明治24年)に正五位を追贈され、京都市左京区の霊山護国神社に墓があります。