京都市上京区、堀川通を紫明通から少し南へ下った西側に、「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」と呼ばれる史跡があります。
この場所にはかつて「瑞光院(ずいこういん)」という臨済宗大徳寺派の寺院がありました。
瑞光院は、もともと戦国時代の武将・浅野長政の別荘でしたが、山崎家盛という人物によって寺に改められました。その後、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、夫人の縁でこの寺の檀家となりました。
瑞光院は、もともと戦国時代の武将・浅野長政の別荘でしたが、山崎家盛という人物によって寺に改められました。その後、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、夫人の縁でこの寺の檀家となりました。
浅野内匠頭は、江戸城の「松の廊下」で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷に及び、切腹を命じられます。その後、家臣である赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。そう、いわゆる「忠臣蔵」です。
討ち入りの後、大石内蔵助をはじめとする四十六士が切腹し、その遺髪が瑞光院に届けられました。寺では彼らの遺髪を埋葬し、供養塔を建てて弔いました。

1962年(昭和37年)、瑞光院は京都市山科区へ移転し、遺髪塔も新しい地に移されました。
現在、この旧跡地には「瑞光院 赤穂義士四十六士遺髪塔跡」と刻まれた石碑が建てられ、当時の記憶を今に伝えています。
現在、この旧跡地には「瑞光院 赤穂義士四十六士遺髪塔跡」と刻まれた石碑が建てられ、当時の記憶を今に伝えています。

なお、山科区安朱堂ノ後町に移転した現在の瑞光院では、今も赤穂義士たちの遺髪塔が大切に祀られています。
忠義を尽くした彼らの志を偲び、多くの人々がこの場所を訪れています。