幕末の頃のお話です。
嘉永6年(1853年)に浦賀の黒船来航をきっかけに、幕府が諸藩に海防の強化を命じ、徳島藩主・蜂須賀斉裕が家臣で砲術家の勝浦安右衛門と小出由岐左衛門の両名に命じて築造させた津田台場があります。
文久3年(1863年)に工事が始まり、津田山から土石を採取し、翌元治元年(1864年)に完成したそうです。
その津田台場の副台場として沖洲台場がありました。
ちょうど津田台場の対岸に当たるところに作られたようで、現在は津田台場とともに公園になっています。
明治3(1871年)4月に御台場が廃止。

津田台場が口径15センチの一等砲二門を含めて全部で三十門。台場上に二十門と左右の松原に各五門を配置。当時の御台場守備兵は50名。という規模であったのに対し、副台場の沖洲台場は規模は高さ一間、幅十間、備砲は唐金の鋳物で長さ約一間のものが五門あったと云われています。
現在では全く面影も遺跡もなく『多分このへんであったと推察される』というところですが、『城郭・陣屋・要害台場事典』にはきちんと記載があり、多くの歴史研究家が存在を認めています。
かつての徳島藩の東端はここであったこと(現在よりはかなり海より手前です)。
そして、こんなところにまで砲台を立てるほど国の防衛が必死だったこと。
何よりそれほど当時の異国船は脅威であったことが伺えます。
寛永時代からすると170年、江戸〜明治〜大正〜昭和〜平成〜令和と時代が映る中で町並みや住む人々も変わっていきます。
しかし、こういった歴史を紡いでいくことは我々現代人の責任とも思っています。
次の世代へ繋いでいく歴史・・・
たまには地域の歴史に触れてみてはどうでしょうか(^^)