前回に引き続き、今回は甲府北エリア②と題して「積翠寺」をご紹介します。
積翠寺(せきすいじ)とは、武田神社から徒歩40分、車で5分の距離にある臨済宗のお寺になります。
武田神社からここまで結構な坂になっているので足腰に自信のある方以外は車かバスを使うことをおすすめします。
武田家の家紋「武田菱(たけだびし)」が見えますね。
お寺の説明が書いてある看板があるのですが、さびていてかなり見づらいです。
なので、内容を私が文章に書き起こしました。
「当寺は臨済宗妙心寺にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。
大永元年(一五二一年)
福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の井戸あり。堂西に磐石あり。高さ八九尺。泉これに激して瀑となる。よりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文十五年、後奈良天皇の勅使として下向せられし三條・四辻二郷と拙寺にて催せられし信玄公の和漢聯句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。」
少し読みやすくするために、句読点を足しました。それでも内容がやや理解しづらいので解説をしていきます。
このお寺の開祖は行基(ぎょうき)という奈良時代のお坊さんといわれています。そして中興開山(ちゅうこうかいざん)したのが鎌倉時代の終わりから室町時代初期にかけて活躍した夢窓国師(むそうこくし)というお坊さんの弟子で竺峯(じくほう)とういうお坊さんです。中興開山とは一旦衰退してしまったのを再び盛んにしたということです。はっきりとしたお寺のできた時期はわからないようですね。
1512年、福島正成(くしま(ふくしま)/まさしげ(まさなり))という武将が甲斐国に攻め込んできた(飯田河原の戦い)際、武田信虎公の夫人はのちの信玄公を身ごもっており、躑躅ヶ崎館の詰城である要害城に逃げ込んでいました。(この要害城は積翠寺のさらに上の山にあるお城です。)そしてこの寺で信玄公を出産したのですが、そのとき産湯を組んだ井戸とされるものがこのお寺にあるといわれています。
境内にある八九尺(およそ27m)の石から水が湧き出たことから「石水寺」という名前のお寺になり、村の名前にもなったと甲陽軍鑑(こうようぐんかん)という歴史書に書いてあるということです。
甲陽軍鑑は武田家の歴史を知る上でこれまで非常に重要視されてきた歴史書になります。
また、この寺の庭園は、夢窓国師が造られたのだそうです。
時期的に緑がありませんが、春頃に見るととても風情を感じる庭園です。
信玄公は和歌好きで知られているのですが、この積翠寺でも歌会が行われていました。1546(天文15年)年に後奈良天皇(ごならてんのう)の勅使(ちょくし)として、三條西実枝(さんじょうにし さねき)四辻季遠(よつつじ すえとお)という公家がこの歌会に参加した際の歌会の記録や良純法親王(りょうじゅんほうしんのう)が愛用した硯箱などが伝来しているということです。
ちょうどこの看板の近くに不動堂があります。
中には信玄公の像があります。よくイメージされる信玄公に近いですね。
だいぶ山の方にあることもあり、とても静かでこじんまりとした雰囲気のお寺ですが、戦国時代には武田信玄公から大変重用されたお寺です。
武田神社にこられた際はぜひ、この積翠寺にもこられるのをおすすめします。
これにて、山梨武田史跡巡り〜甲府北エリア②「積翠寺」〜は終了となります。