ここで一度甲府に戻って、山梨県甲府市住吉にある浄土宗の寺院「入明寺(にゅうみょうじ)」をご紹介します。
私も長年このお寺の存在を知らなかったのですが、数年前に自転車で何気なく遠乗りをしていた際偶然発見しました。私が住む地域からはやや遠いのでその存在に気づかなかったですね。
1487年(長享7年)、村上天皇の子孫である六条有成が得度(とくど)して、浄閑と称し、創建された草庵が始まりです。
1487年というと室町時代で、相模北条氏の祖、北条早雲(そううん)が活躍していた時代です。この人物は歴史の教科書でも「下剋上(げこくじょう)」のところで出てくる人物ですね。
六条有成は天皇の子孫なので公家ですが、出家して仏門の世界に入り、甲斐国に来てこの草庵を営みました。思い切った決断ですね。
由来の看板が結構長かったので2枚になりました。
その後この草庵は正式に「長元寺」となります。のち、2代目住職のときに現在地に移り、3代目住職のときに現在の「入明寺」と名が改められました。
そして入明寺を紹介する一番の目的は、「武田信親(のぶちか)公の墓」があるからです。武田信親、もしくは「海野(うんの)信親」と聞いて誰だかわかる方は、相当な戦国マニアか信長の野望を鬼やり込んでいる方かと思います。
武田信親公は、信玄公の次男で、甲府五山東光寺の回で出てきた武田義信公の弟にあたります。
この信親公、生まれながらとも幼少期からとも言われていますが、いずれにしても盲目の方でした。盲目であったこともあり出家して「竜宝(りゅうほう)」と名乗ります。なので、武田竜宝とも呼ばれます。
出家して僧侶になりながらも、信玄公信濃進出により制圧した「海野幸義(うんのゆきよし)」という武将の娘をめとって海野氏の名跡を継承します。ゆえに、「海野信親」とも呼ばれるのです。
そんな信親公、兄義信公が亡くなった際、盲目のため家督が継げず、結果異母弟の武田勝頼公が家督を相続することになりました。
そんな信親公も武田家の一門として厳しい最後が待っています。
織田信長の甲州征伐により、この入明寺にかくまわれていたものの、勝頼公自害の知らせを受け、信親公も最後と悟ったのか自害して果てました。享年42歳。
一説では、武田家滅亡の4日前に信長の嫡男織田信忠(のぶただ)により殺害されたとの話もあります。法名は「長元院殿釈潭竜芳大居士」。お墓の奥の石碑にその法名が記されています。
お墓の前にある看板のこの文章、何か気づきませんか。「武田家の血脈を残して」自刃せし?
そうなんです、信親公には「武田信道(のぶみち)」という息子がいました。しかも信道公は織田方の残党狩りから逃れて生き延び、のちに徳川家康と甲府尊体寺で拝謁(はいえつ)しています。武田家が滅亡しても男系の血筋は絶えていないのです。
その後、信道公は江戸時代に起きた大久保長安(おおくぼながやす)事件に巻き込まれて、伊豆大島に流されてそこで没しました。
子孫はのちに赦免されて江戸に戻り、高家という格式ある家柄として認められます。しかも、現在この信親公の血筋が信玄公からの武田家嫡流と正式に認められているのです。
こちらが本殿です。
すぐ近くの鐘です。
お寺として大きくはありませんが、武田信親公最後の場所としてどうしても取り上げたかったお寺です。甲府観光で行く場所に困ったら軽く散策がてら寄ってみるのもいいかもしれません。
では、これにて山梨武田史跡巡り〜武田信親公最後の地「入明寺」〜は終了となります。ご覧いただき、ありがとうございました。