今回は、武田勝頼公が築き、68日で灰となった「新府城(しんぷじょう)跡」をご紹介します。
新府城は、山梨県韮崎市中田町にある平山城(ひらやまじろ)です。平山城とは平地の中にある山や丘陵に築かれた城のことです。
勝頼公は長篠の合戦で大敗したのち、他国侵略から領地の支配強化に方針転換をしました。そんな方針の一環として、1581年(天正9年)から新府城の築城が開始され、その年の年末には勝頼公が甲府躑躅ヶ崎館から韮崎新府城へ移住しました。
信虎公時代から本拠であった甲府躑躅ヶ崎館は城としての機能は十分であったものの、経済発展として城下町の拡大がそれ以上のぞめませんでした。そのため、街道の交差する交通の要所である韮崎の地に新たな城を築き、経済発展を狙いました。
しかし、信濃木曽領の木曾義昌(きそよしまさ)、駿河江尻領の穴山信君(あなやまのぶただ)が裏切ったことで、織田信長の軍勢が信濃から、徳川家康の軍勢が駿河から甲斐に侵攻してきました。ちなみにこの裏切った2名、武田家の御一門衆、つまり親族です。詳細は抜きにして、勝頼公は親族が裏切るまで切羽詰まっていました。
その後、その他の家臣一族が投降、離反しこれ以上は持ちこたえられないということで、築城わずか68日にして新府城を焼き払い山梨県大月市岩殿城の小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼り落ち延びることとなります。
この城を焼き払う際、人質も一緒に焼き払ったということで心霊スポット的にここを訪れたりする方もいるようですが、個人的にはそういう場所としていくのはオススメしないです。遊び半分の気持ちで行くのは失礼ですし、何より危険です。あくまで史跡として訪問してください。
では、説明が長くなりましたが遺構をご紹介します。
これは帯曲輪(おびくるわ)といい、主に通路として利用されていました。基本的にはこの道に沿って遺構をめぐることができます。
南大手門です。この門の右側は以前要害城で説明した「枡形虎口(ますがたこぐち)」になっておりしっかりと防御体制が敷かれています。門を突破しても、すぐそこが四角に囲まれた空間になっているため、敵を狙いやすくした入り口のことですね。
そして大手門の前には、丸馬出しがあります。以前、躑躅ヶ崎館の回で馬出しの説明をしました。二重の防御と行動を探らせないための施設ですね。
ここから本丸に向かう途中に、東三の丸、西三の丸と続きますが、枚数の関係で画像は載せません。
本丸の直前に二の丸があります。分かりにくくて別のとこから侵入して、出た後に二の丸だということに気づきました。w
そしていよいよ本丸です。
ここまで城をぐるっと回るかたちで到着しました。写真を撮ったりしながらだと結構長く感じますね。
この図を見ると城の全体像が分かりやすいと思います。左に書いてあるこの七里岩(しちりいわ)は、南北の長さが30km=7里あるということからこの名がつけられました。高さは、10m〜40mの断崖です。
本丸跡には新府城の鎮守社として建てられた藤武(ふじたけ)神社があります。地域の人からは「お新府さん」と呼ばれており、毎年4月には、トップ画になっている249段の石段を御神輿をかついで駆け上がるお祭りがひらかれています。
また本丸跡には、武田勝頼公霊社や長篠の戦い戦没者慰霊碑などもあります。
遺構から降りて北側に回ると、東出構(ひがしでかまえ)、西出構(にしでかまえ)や堀が見れます。この出構は攻撃に対する備えや水位の調整施設と言われています。
私は、城の遺構側から無理やり北側に出た結果、堀の前にある湿地帯に足を突っ込んで泥だらけになりました。w
最後になりますが、この新府城、なぜこの名前になったのか。勘のいい方はわかるかもしれません。甲府躑躅ヶ崎がかつての府中なのに対して、ここは新しい府中ということで「新府」と名ずけられました。
ではこれにて、山梨武田史跡巡り〜武田家最後の城「新府城跡」〜は終了となります。ご覧くださり、ありがとうございました。