茅ヶ崎駅から南に雄三通り→鉄砲道→ラチエン通りを南に通り抜けると、「開高健記念館」と「茅ヶ崎ゆかりの人物館」があります。
開高健(1930-1989)は大阪出身で茅ヶ崎に長く住んだ芥川賞作家、ベトナム戦争取材経験と釣り好きから「日本のヘミングウェイ」と呼ばれたそうですが、残念なことに私は作品を読んだことがないので、今回は「茅ヶ崎ゆかりの人物館」だけにしました。
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天気がよければウッドデッキでお茶を飲んだりできるスペースもあるのですよ。デッキの後ろにあるこの建物は展示館に隣接した多目的ホールです。
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3/26まで行われていたのが「平塚らいてうと保持研 南湖院と表現の日々」です。
南湖院は1899年から1945年まで開かれていた、東洋一のサナトリウム(結核療養施設)でした。創設者はクリスチャンの医師、高田畊安(たかた こうあん)、丹後国中辻村(舞鶴市)の出身です。東京帝国大学で教鞭をとったドイツ人医師ベルツに学びました。
当時、結核といえば「不治の病」であり、治療法としては「大気・安静・栄養」とされていました。空気のきれいな場所として茅ヶ崎村字南湖下(にしなんごしも)が選ばれたのです。
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南湖院は国木田独歩が最期を迎えた場所として有名になりましたが、田山花袋をはじめとした当時の文学者たちが独歩の「病床録」を完成させました。
今回のテーマとなる作家で思想家、平塚らいてうの母と姉は南湖院に入院しており、らいてうはしばらく茅ヶ崎に住んでいました。
らいてうが中心となって刊行され、女性運動を盛り上げた文芸誌「青鞜」の編集スタッフだった尾竹紅吉、保持研子も茅ヶ崎に集いました。明治時代の女性解放運動は、一時期南湖院から発信されていたのです。
らいてうの年下の恋人、奥村博史との出会いも南湖院が舞台となりました。当時のメディアでは、酷いバッシングを受けたロマンスです。
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南湖院で入院生活を送った文学者には、このほか詩人の八木重吉、童話作家の坪田譲治、作家で参議院議員も務めた森田たまetc.がいます。
茅ヶ崎といえば海、マリンスポーツ、音楽や映画を想像する方が多いかと思いますが、近代日本文学の伝統もあるのです。
残念ながら会期は終わりましたので、資料はこちらをどうぞ。↓