和歌山県海南市の黒江地区にある紀州漆器伝統産業会館(うるわし館)に入ると、棚や館内の各所に設けられた台の上に、盆や重箱、椀などの漆器が並んでいる。

日常使いのものから装飾性の高いものまでが並び、それぞれに異なる表情がある。
館内には観光客の姿も見られるが、静かに棚を見て回る人、手に取って確かめる人など、過ごし方はさまざまだ。

奥には工程を説明するパネルや映像があり、製品そのものだけでなく、どのように作られているのかへと視線が向かうつくりになっている。
この場所について話を聞いたのは、紀州漆器伝統産業振興協会事務局長の小柳さんだ。

会館は1986年に組合主体で建てられ、展示と販売、体験を一体で行う場として運営されている。地域で作られた漆器を、ここで手に取り購入できるようにする役割も担っている。

漆は、縄文時代から強力な自然由来の接着剤として利用され、漆器は宮中など上流階級で使用されていた品でした。木地のまま使われていた器に強度を持たせるため、コーティング剤 として用いられた漆が塗られるようになった。

黒江の漆器づくりは、近江から移り住んだ木地師たちが木材を求めてこの地に入ったことが始まりとされる。

柿渋に木炭を混ぜたものを下地にして、漆を塗って丈夫で安価な日用品として親しまれ、日本三大漆器の一つとして発展した。実用性重視の渋地椀などは、美術的な価値を高めた漆器へとも進化していった。
展示されている赤い器の中には、「根来塗」と呼ばれる技法のものもある。使い込むことで下地の黒が現れる現象が、そのまま模様として受け入れられ、意匠として定着したものである。

二階には、漆の歴史を紹介する展示室が設けられている。漆の木から採取するための道具類が並び、重箱や屏風などの漆器も展示されている。

三階では蒔絵体験が行われている。筆で描いた線の上に粉を蒔き、色を重ねていく工程を、講師の指導のもとで進めていく。

完成したものはそのまま持ち帰ることができる。同じ下絵を選んでも、それぞれグラデーションをつけて仕上がったものは、一つとして同じにはならない。

来館者は国内にとどまらず、海外から訪れる人もいるという。

個人で訪れる欧米の来館者と、団体で訪れるアジア圏の来館者では滞在の仕方も異なるが、いずれもこの場所で手を動かしたり、製品を手に取ったりする時間を過ごしていく。

一方で、漆器を取り巻く環境は変化している。食洗機や電子レンジに対応しにくいことや価格帯の問題もあり、日用品として使われる場面は減りつつある。

そうした中で、漆器は工芸品として選ばれる機会も増えているという。
組合としての取り組みも続いている。

小柳さんが奥から紀州を取り出し、手元で見せてくれた。かつて一度途絶えた小型の雛人形「紀州」は、組合主導で復活されたものの一つだ。

注文が増える一方で、制作には時間がかかるため供給が追いつかない状況も続いている。塗りと乾燥、研ぎの工程を繰り返すため、完成までには一年近い時間を要する。
会館を出て黒江の町を進むと、伝統工芸士(現代の名工)の林克彦さんの工房漆屋はやしがある。室内には作業途中の器が並び、完成品とは異なる落ち着いた色合いの漆器が目に入る。
林さんは祖父の代から続く家業として漆の仕事に関わってきた。幼い頃から仕事の様子を見て育ち、高校卒業後は京都で約十年の修業を経て、この町に戻っている。

黒江ではかつて多くの工房があったが、現在は減少し、実際に漆を扱う工房はごくわずかになっている。素材は木製からプラスチックへ、塗りも漆から化学塗料へと移行し、製造のあり方そのものが変化してきている。

林さんの工房では、木工以外の工程をほぼすべて自身で行っている。下地処理、塗り、蒔絵といった工程を一つずつ積み重ねていく。

どの工程も重要であるとしながら、「強いて言えばデザイン」と話す。仕上がりを左右するのは、最初の構想や形の取り方にあるという。
作業台では、漆に顔料を加えて練る工程が続いていた。数時間かけて練り上げることで色の発色が整う。単に混ぜるのではなく、粒子を細かくするように練り続ける必要がある。

乾燥は専用の部屋(漆風呂)の中で行われる。電気設備に頼るのではなく、湿度を保つ環境を整えることで漆を定着させていく。季節によって乾き方が変わるため、作業の進み方も一定ではない。

蒔絵の工程では、漆で描いた線の上に金粉などを蒔き、模様を浮かび上がらせる。細い筆で描かれた線は均一で、近くで見ても手作業とは思えない精度を持っている。
需要の変化についても、林さんは現場の実感として語る。かつて多く使われていた婚礼道具や重箱などは減少し、生活様式の変化がそのまま仕事の内容に影響している。

価格競争についても、海外製品とは異なる方向で価値を示していく必要があると考えている。

そのため、日常的に使われる安価な製品とは距離を取り、手作業と天然素材による制作を続けている。一つの器に時間をかけて仕上げることで、異なる価値を保とうとしている。

工房での制作と、会館での展示や体験は、同じ地域の中でつながっている。会館で漆器に触れた人が制作の現場に関心を持つこともあれば、工房で作られたものが会館に並ぶこともある。
うるわし館を出て黒江の町を歩くと、一定の角度で折れ曲がる「のこぎり歯」のような形状の道路が見られる。かつては川に沿って船着き場が設けられ、紀州連子格子や漆喰の真壁、切り妻の低い家が並んでいたという。そうした町並みの面影が、今も残っている。

黒江の町の中では、そうした行き来が続いている。展示を見る人、体験に参加する人、作業を続ける人が、それぞれ別の場所にいながら同じ技術に関わっている。

会館では来館者が器を手に取り、工房では漆が塗り重ねられていく。
取材:2026年3月