武田信義館跡
観光・その他 山梨県韮崎市神山町556−2   [地図]
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2023-03-23 15:35
山梨武田史跡巡り〜武田信義紀行①「武田信義館跡」〜
観光・レジャー 山梨県・武田信義館跡
観光・レジャー 山梨県 武田信義館跡
今回からは「武田信義(たけだのぶよし)」という人物に関わる史跡を4回にわたってご紹介させていただいます。
武田信義公とは、信玄公からさかのぼること16代前の、甲斐源氏4代目当主です。
実はこの人物、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にもちょこっと出てきているんです。八嶋智人さんが演じられていました。
生まれは1128年(大治(だいじ)3年)、甲斐源氏の祖、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)公の孫、源清光(きよみつ)公の次男として誕生しました。
幼名は龍光丸/勝千代。「龍」とか「勝」って漢字がつくとなんだか格好いいですね。
13歳で武田八幡宮という神社にて元服し、武田太郎信義と名を改めます。
「甲斐源氏武田」と聞くとやはり甲府を思い浮かべてしまうものですが、この信義公の頃は山梨県「韮崎市(にらさきし)」を拠点としていました。
韮崎といえば県民にとっては韮崎高校のサッカー部が強くて、元日本代表中田英寿さんの出身校というのが思い浮かぶかもしれません。
話は逸れましたが、この信義公の館が韮崎市神山町武田という場所にあります。地名まで武田になっていますね。
ごく普通の民家というか畑というか、そんな感じの中にポツリとあります。
あと、ここは駐車場がないのでご注意ください。私は、看板が出ている近くに仕方がないので路駐しました。w
1180年(治承4年)、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて、平家討伐の兵を挙げます。同じ頃、源頼朝も令旨を受けて挙兵しました。
ちなみに令旨とは皇太子の命令を伝えるための文書で、以仁王というのは後白河天皇(ごしらかわてんのう)の子です。
大河の方では、大泉洋さん演じる源頼朝が、「なぜわしが、武田信義に頭を下げねばならんのだ」と駄々をこねていましたが、平家打倒にはそれぐらい信義公の力が重要視されていたということですね。w
その後、富士川の戦いをはじめ、一ノ谷、壇ノ浦と平家討伐戦において活躍しますが、嫡男の一条忠頼(いちじょうただより)が謀反の疑いをかけられ、酒宴の席にて暗殺されてしまいます。
その後、三男の板垣兼信(いたがきかねのぶ)は土肥実平という鎌倉方の御家人の配下に入ることを要求されたり、加賀美遠光(かがみとおみつ)という信義公の弟とも叔父とも言われる武将が信濃守(しなののかみ)に優遇されるなど一族はバラバラとなり勢力が衰えていきます。
1186年(文治2年)、59歳にて病没したと言われていますが、様々な資料から1186年以降も生存していたのではないかとの見方も出ています。
館跡周辺には「お屋敷」「的場」「お堀」「お庭」「具足沢」などの地名が伝わっているようで、信義公がここにいたことを感じさせてくれます。鎌倉時代の遺跡も発掘されていますよ。
それでは、山梨武田史跡巡り〜武田信義紀行①「武田信義館跡」〜は終了となります。
次回も武田信義紀行続きます。ご覧いただき、ありがとうございました。
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