今回からは2回にわたって甲府東エリアの武田史跡を紹介したいと思います。
第1回目は武田史跡としては1、2を争うほど有名なのではないかと個人的に思っている、「甲斐善光寺(かいぜんこうじ)」をご紹介します。
なぜ、わざわざ善光寺の前に「甲斐」とついているのか。これにはこの寺の成り立ちが関わっています。
始まりは1558年(永禄元年)のことで、この頃武田信玄公は越後の龍と呼ばれた長尾景虎と有名な「川中島の合戦」を数度にわたりおこなっていました。
ちなみに、信玄公は信濃に侵略していたため越後に近い長尾景虎と争うことになっていたのです。
この川中島の合戦による戦火が長野県にある信州善光寺にも及んでいました。善光寺の焼失を危惧した信玄公はこの甲斐善光寺を開山しここに御本尊善光寺如来像や諸仏を奉還(ほうかん)したということです。
つまり、元は信州にあった寺を甲斐国にも創建したため、区別する意味も込めて「甲斐善光寺」とよんでいるわけです。
こちらは善光寺山門です。この山門は江戸時代の焼失により再建されたものですが、門の両側には金剛力士像(こんごうりきしぞう)が祀(まつ)られています。暗くて写真に写せなかったので、お越しになった際は是非見てみてください。
山門をくぐると右手に面白いものがあります。「お咳婆さんの石」です。
これは、百日咳などの咳に苦しむ人が、全快したら飴を奉納することを約束して祈願すると効果が著しいと言われた石です。甲府でもかつては水晶がよくとれたと言われていますから、県民はもともと石への信仰心が厚いのかもしれませんね。(私もパワーストーンは持っています。w)
こちらが甲斐善光寺の金堂です。残念ながら信玄公時代のものは1754年(宝暦4年)の火災にて焼失してしまったため、1796年(寛政8年)に再建されたものです。実際はかなりの迫力ですよ。
金堂の中はこんな感じになっています。ここに上がってお参りもできますし、拝観料を払うと日本一と言われる「鳴き龍」を天井に見ることができます。詳細はぜひ行ってみてからのお楽しみ。
金堂の正面右手には、「甲州善光寺の棟木(むなぎ)」という木がたっています。近くにあった説明文をそのまま掲載します。
昔、遠光寺(おんこうじ)村というところに、お琴という美しい娘がおりました。お琴には、夫となるべき若者がいて、二人は仲むつまじく過しておりましたが、ある青い月のきれいな晩に、若者は、「私は、高畑(たかばたけ)村にある大きな柳の木の精です。あす善光寺の棟木になるために切り倒されてしまうので、お別れしなければなりません」と涙ながらに言いました。そして「私は切られても、千人二千人の力では動きません。もしあなたが来て声をかけてくれたら、動きましょう」と言いのこすと、すうっと消えてしまいました。
さて、そのあしたのこと、柳の大木は切り倒されましたが、いくら人夫を増やしても動きません。そこで、お琴が泣く泣く今様をうたうと、柳の大木はするすると動いたということです。
今様(いまよう)とは平安・鎌倉時代に流行った歌謡(かよう)のことですが、突然自分の恋人が聖霊だと打ち明けて消えてしまったらびっくりもしますが、やはり切ないですね。
善光寺はお寺なので当然墓地があるのですが、そこにも見所があります。一つ目は「加藤光泰の墓」です。
加藤光泰(みつやす)は、はじめ美濃斉藤家の家臣でのちに豊臣秀吉の家臣となります。武田家が滅亡したのち何人か経たのち甲斐国の領主になりましたが、朝鮮出兵のさなか亡くなってしまいます。そしてその亡骸がこの甲斐善光寺に葬られたようです。
普通の墓地に紛れているのでやや見つけにくいかもしれないです。
そしてこちらも墓地にまぎれている「阿闍梨(あじゃり)の井戸」です。やや長めですが看板の説明をそのまま掲載します。
浄土宗の開祖法然上人(ほうねんしょうにん)の師であった、肥後阿闍梨皇円(こいうえん)上人は、嘉応元年(1169年)六月に、遺言として次のようなことを語りました。「私はこのたび魂を遠州桜が池(静岡県掛川市)に移し、弥勒菩薩下生(げしょう)の五十六億七千万年後まで、龍の姿となって待とうと思う。しかし、その間に心がゆるむといけないので、毎年大晦日の夜、信州善光寺の阿弥陀如来様に参詣し、仏縁が切れないようにしたい。ついては、その一夜の宿の場所として、善光寺の金堂辺りを穿(うが)とうと思う。」翌年、弟子の澄算(ちょうさん)上人が信濃善光寺に参詣したところ、果たして金堂の裏に井戸がありました。寺僧に由来を尋ねたところ、大晦日に突然大地が振動し大穴があき、清水が満ちあふれたとのことでした。そこで、澄算は涙を流しながら、皇円阿闍梨の精魂が善光寺に参詣したことを寺僧に告げたのです。その時から、そこは阿闍梨の井戸と呼ばれるようになりました。
さて、善光寺の御本尊は、武田信玄公によって一時甲斐に遷坐(せんざ)されました。その入仏供養が終わった元亀三年(1572年)の歳末、この場所に突然穴があき、清水が湧き出しました。信濃から御本尊とともに移ってきた寺僧たちは、皇円阿闍梨の霊魂が、如来様を慕ってやってきたのだと感嘆し、信濃と同様に阿闍梨の井戸と呼ぶことにいたしました。江戸時代の疫病流行の折には、信心ある人がこの井戸の水を飲むとたちまちに平癒したと伝えられております。現在、この井戸は埋まっているように見えますが、実は金堂前の手洗場と池に水が引かれており、豊かな水量で多くの参詣の皆様に親しまれております。
実は私、ご先祖様のお墓参りで相当な回数甲斐善光寺にはきていたのですが、まさかこの阿闍梨の井戸から水がひかれていたとは思いもしなかったのでだいぶ驚きました。
それに、五十六億七千万年後まで龍になるとは、龍神様にでもなったのでしょうか。
金堂の裏には梅の花が咲いていました。かわいいですね。
参拝するには良い季節になってきました。
周辺地域の看板は参拝された方はよくご覧になっているのを見かけます。わかりやすくまとまっていますね。
結構な長さになってしまいましたが、この甲斐善光寺は本当に見応えがあります。7年に一度ひらかれる御開帳の際は貴重な本尊が見れるのでそのタイミングを狙って行くのも良いですね。
それではこれにて、山梨史跡巡り〜甲府東エリア編①「甲斐善光寺」〜は終了です。