今回から3回に分けて「武田家終焉の地」についてご紹介したいと思います。
前回の新府城でも書きましたが、武田勝頼公は内部の裏切りや離散、織田・徳川軍の甲斐侵攻によりいよいよ追い込まれていきます。そして、新府城に火を放ち、大月市の岩殿城を目指して落ちていきます。
しかし、最後の一手が遂に打たれてしまいます。なんと、逃げ落ちていく目的地とした岩殿城の小山田信茂が裏切ります。
こうしてもはや逃げ場を失った勝頼公一行は、天目山(てんもくざん)を目指して逃げ落ちていきます。この天目山というのは、室町時代に甲斐源氏13代目当主武田信満(のぶみつ)が自害した場所になります。
しかし、天目山の目前にあたる甲州市大和町田野で、織田軍の滝川一益の軍勢に追撃されます。ここで有名な古戦場がいくつかありますので紹介させていただきます。まずは、「四郎作(しろうつくり)古戦場」です。
武田家の重臣小宮山昌友の長男小宮山友晴(こみやまともはる)は、元々勝頼公の側近と仲が悪く、長篠の合戦で敵前逃亡した武田信廉公(逍遥院でご紹介した信玄公の弟です。)を非難するなど、厳しく意見したといわれています。そのため、勝頼公の側近の讒言等によって勝頼公から疎まれ、幽閉されてしまいます。
親族衆が寝返り、信廉公は敵と一戦も戦うことなく逃亡する中、「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥辱」「御盾となり高思の万分の一にも報いたい」という強い忠義心で、天目山の勝頼公の元に馳せ参じ奮戦したということです。その小宮山友晴公(この忠義心に敢えて「公」とつけました。)が陣を敷いたのがこの四郎作だと言います。
ですが、奮闘むなしく討ち死にされました。残念ですが、勝頼公は信玄公以来の宿老を嫌い、自分にいいことばかり言う側近でかためたきらいがあります。
そんな中、もはや武田家滅亡も時間の問題とする中、主君への忠義を貫いた小宮山友晴公、漢の中の漢と言わざるをえません。
次は、鳥居畑(とりいばた)古戦場です。
ここはちょうど四郎作古戦場と勝頼公最後の地「景徳院(けいとくいん)」の間にあります。早い話、ここが武田軍と織田軍がもっとも激しく戦った場所です。戦ったと言っても、武田軍100人程度に対して、織田方の滝川一益・河尻秀隆軍は4000人というもはや勝ち目のない戦いです。しかし、ここでの奮闘があったからこそ勝頼公が最後を迎える時間がかせげたとも言えます。
次は「土屋惣蔵片手切」です。名前のインパクトがあります。
勝頼公一行は天目山の栖雲寺(せいうんじ)を目指し崖道を登る途中、天目山に先回りしていた織田軍により行く手を阻まれます。そこで家臣土屋惣蔵正恒(つちやそうぞうまさつね)は、主君の危機を救うため崖道の最も狭いところで岩角に身を潜め。片手は藤蔓(ふじつる)に捕まり、片手には刀を持ち敵兵を次々に切って川に蹴落としました。谷川の水は3日間血で染まったという伝説が残っています。これを「片手千人斬り」なんていったりもします。
ちなみにここは、車道にさらっとあるので見る場合、どこか広いスペースに車を止めていった方が良さそうです。
そして最後は、トップ画にある「姫ヶ淵(ひめがぶち)」の石碑です。こちらは、景徳院の駐車場にあります。
武田家滅亡のおり、勝頼公の正室北条夫人の侍女16名は景徳院の下を流れる日川に身を投じて命を絶ったと言います。この場所を「姫ヶ淵」といいます。
北条夫人とその侍女たちの姿を石のレリーフにしたものがトップ画になります。
ちなみに、JR甲斐大和駅の前には勝頼公の銅像がたっています。
一口に武田家滅亡といってもその瞬間まで様々な出来事や思いがあったのだと感じられる史跡でした。
ではこれにて山梨武田史跡巡り〜武田家終焉の地①「最後の奮戦 甲州市大和町田野をめぐる」〜は終了です。ご覧くださり、ありがとうございました。