大阪市北区西天満。
南森町駅から歩いて数分のビル地下に、「蕎麦らうんじ 東山」はある。
午前10時前、昼の営業が始まる前の地下フロアは静かだった。

店内にはまだ客の姿はなく、木製のカウンターやテーブル席が落ち着いた照明の中に並んでいる。
店主の東山さんは店に入ると、まずその日の蕎麦を打つ。その後、小鉢や日替わりの魚料理を仕込み、11時の開店へ向けてランチ営業の準備を整えていく。

まず店に入ったら、蕎麦打ちをします。その後に、ランチの小鉢を作ったり、日替わりの魚料理を作ったりして、営業に入ります

そう話しながらも、東山さんの手は休まらない。
蕎麦打ち台の前に立つ東山さんの動きは、ゆっくりしているようで無駄がない。蕎麦粉に水を入れ、手で混ぜていく。水回しと呼ばれる最初の工程だ。

「伸ばしたり切るのは、結果が目で見てわかるんです。でも水回しは、ちゃんと混ざっているかどうかがわかりにくい」

今では状態がわかるというが、始めた頃は何が正解なのかが見えにくかったという。
蕎麦粉と水が少しずつまとまり、やがて一つの生地になっていく。その変化を確かめるように、東山さんは手を動かしていた。
東山さんは京都府舞鶴市で育った。小学生の頃は家の中で遊ぶことが多く、工作やラジコンに夢中になった。
ラジオやアンプを作ることもあり、目に見えない電気の働きに興味を持ったという。
その後、舞鶴工業高等専門学校の電気工学科へ進んだ。

高専時代には、授業で触れたコンピューターやプログラミングに面白さを感じた。
その興味から、卒業後は大阪に本社を置くIT企業に入社した。
入社当初は製鉄工場の管理システムや気象、鉄道、空港など、さまざまな分野のシステムに関わった。

やがて医療システム部へ異動し、健康診断に関するシステムの提案やプレゼンテーションを担当するようになった。

東京勤務も経験し、仕事では全国へ出張する機会が多かった。47都道府県すべてに足を運び、各地を回っていたという。
北海道では、システムの立ち上げがうまく進まず、長い期間泊まり込んで対応したこともあった。

蕎麦との出会いは、その会社員時代にあった。東京勤務の頃、慰安旅行で群馬県を訪れ、そこで蕎麦打ち体験に参加した。

「その時初めて、蕎麦打ちの奥深さというのを感じました」
自分で打った蕎麦をその場で食べた。その蕎麦を、東山さんは「生涯食べた蕎麦の中で一番美味しいと思いました」と振り返る。
蕎麦打ちが思っていたよりもうまくできたこともあり、蕎麦への関心は一気に深まった。

それ以来、出張先で時間ができるたびに、各地の蕎麦屋や蕎麦粉屋を訪ねるようになった。
当初は蕎麦屋で話を聞いていたが、思うように教えてもらえないこともあった。
やがて、蕎麦粉屋の方が丁寧に話を聞かせてくれることに気づいたという。

「蕎麦屋へ行くよりも、蕎麦粉屋を攻めようと思ったんです」
飛び込みで訪ね、地域ごとの蕎麦の特色や蕎麦打ちの考え方を聞いた。正式に弟子入りしたわけではない。全国を回る仕事の合間に、自ら足を運び、聞き、試しながら学んできた。

現在、店で使っている蕎麦粉は、栃木県の製粉所から仕入れている北海道産の蕎麦粉が基本になっている。各地でさまざまな蕎麦に触れる中で、自分の口に合うものとして選んだものだ。

「自分の口に一番合うものを選択するんです。もうそれ一択です」

人の味覚はそれぞれで、何が一番かを決めることはできない。だからこそ、自分がおいしいと思うものを使う。全国を回り、自ら見て、聞いて、試しながら積み重ねてきた時間が、現在の蕎麦につながっている。

30代前半の頃から、東山さんは将来的に飲食店をやってみたいと考えていた。もともと飲み食いが好きだったことに加え、人とコミュニケーションを取れる仕事であることに惹かれていたという。

当初から蕎麦屋と決めていたわけではない。しかし、蕎麦への関心が深まり、全国で学ぶ時間を重ねる中で、少しずつ「蕎麦屋を開く」という考えが形になっていった。

転機になったのは、母親の介護だった。東京勤務中、横浜で東山さんの弟の近くに住んでいた母親の体調が悪くなった。
出張先にも連絡が入るようになり、全国を飛び回る仕事を続けながら介護に対応することが難しくなっていった。
そこで東山さんは退職を決意し、54歳で仕事を辞めて母親とともに舞鶴へ戻った。

舞鶴での生活は半年ほど続いた。はじめは仕事をせず、母親と過ごす時間が中心だった。母親の状態が少しずつ落ち着いてくると、以前から考えていた飲食店の開業を、予定より早めて進めることにした。

その後、母親とともに大阪へ移り住み、店を出す場所を探し始めた。

店を出す場所として探したのは、大阪市内のJR東西線沿線だった。通いやすさも考え、西は新福島から東は南森町あたりまでの範囲で物件を見ていた。
その中で、立地や家賃などの条件が最も合ったのが現在の場所だった。

最初に見たとき、物件はスケルトンの状態だった。内装を一から考えなければならず、費用もかかる。それでも東山さんは、好きなように作れることに前向きな気持ちを持ったという。

「苦労したという印象はあまりないですね。ワクワク感とか楽しみ感が先立っていました」
2017年、55歳で「蕎麦らうんじ 東山」を開業した。
店名に「らうんじ」と入れたのは、ゆっくりくつろいで蕎麦を楽しんでもらえる場所にしたいと考えたからだ。

ランチでも基本的に相席はしない。4人掛けのテーブルに2人客が座る場合でも、そのまま使ってもらう。客にリラックスして過ごしてもらうことを大切にしている。

蕎麦だけを出す店ではない。鴨料理や魚料理、酒に合う料理も用意している。

東山さんは、東京の蕎麦屋にはもともと飲み屋の要素があると話す。蕎麦を食べるだけでなく、酒や料理を楽しみ、最後に蕎麦で締める。そうした過ごし方を含めて店を作っている。

昼の営業が終わると、片付けをして天満市場へ仕入れに向かう。ほぼ毎日のように市場へ足を運び、その後、夜の営業までの間に昼食をとる。

全国を飛び回っていた会社員時代とは違い、店を始めてからは、この街で過ごす時間が増えた。
市場へ通い、商店街を歩き、近隣の店に立ち寄る。
そうした日々の中で、昼休みに立ち寄るようになったのが、天神橋筋商店街の酒店「明昭屋」だった。
明昭屋との出会いは、友人の紹介だった。仕入れ後の時間を過ごせる店を探していたときに連れて行ってもらい、それ以来通うようになった。

店主によると、東山さんはコロナ前から6年ほど通っており、平日はほぼ毎日、午後3時半から4時前頃に顔を出すという。

店では阪神タイガースや競馬の話題で盛り上がることが多く、店主とは日曜日に一緒に飲みに行くこともある。店の客も交えて出かけることがあるという。

店を始めてから知り合いが増えたと東山さんは話す。毎日のように明昭屋へ立ち寄り、近隣の商売人たちと言葉を交わす時間も、今では暮らしの一部になっている。
「思っていた以上に商売の街ですね。昔ながらの商売人が多い街だなという印象です」

そう話す東山さんにとって、南森町は店を営む場所であるだけでなく、商店街や近隣の店で人と顔を合わせる日常が積み重なってきた街でもある。
現在は大阪市内の千船駅周辺で母親と暮らしている。朝は阪神電車で梅田まで出て、そこから徒歩で店へ向かう。

休日は日曜日。母親をスーパー銭湯へ連れて行くことと、店の買い物をすることが毎週のルーティーンになっている。日曜日には、母親と昼食や夕食を一緒にとる。

母親との暮らしでは、気に障るようなことを言わないように心がけているという。ただ、つい普通に話してしまい、へそを曲げることもある。そうしたことに気をつけながら暮らしていると、東山さんは話した。

これからについて尋ねると、東山さんは、できれば店の規模を少し大きくしたいと話した。2店舗目を出したい考えもある。
そのためには、今の店を任せられる人を育てる必要がある。さらに先のこととして、都会ではない落ち着いた場所で、細々と蕎麦屋をやってみたいという思いもある。

「体が動く限り、蕎麦屋をやりたい」
話を終える頃には、店内には湯気が立ち始め、開店の準備が着々と進んでいた。
東山さんは蕎麦打ちを終え、厨房へ戻っていった。南森町の地下にある店で、その日も東山さんの日常が始まっていた。
取材:2026年6月