景徳院(田野寺)
観光・その他
山梨県甲州市大和町田野389
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山梨武田史跡巡り〜武田家終焉の地②「武田勝頼公最後の地 景徳院」〜
観光・レジャー
山梨県・景徳院
さて今回は、武田勝頼公が最後を迎えた「景徳院(けいとくいん)」をご紹介します。
景徳院は、山梨県甲州市大和町田野にあります。かつては地名から「田野寺(たのでら)」とよばれていました。
武田家が滅亡したのち甲斐を支配した徳川家康は勝頼公や亡くなった家臣たちを弔(とむら)うため田野の地に「景徳院」を創建しました。
江戸時代に一時住職が不在となってしまいますが、1624〜1644年(寛永年間)には笛吹市にある広厳院から住職を招き入れ再興しました。
1845年(弘化2年)の江戸後期と1849年(明治27年)の2度にわたって火災があったため山門以外は焼失してしまったようです。元々は壮大な寺院だったとか。ただ、この山門も1835年(天保6年)の江戸後期に建てられたものです。
こちらがその山門です。それでも江戸後期の作品が今も残っているのですから貴重です。ちなみに、県指定史跡となっています。
この寺院の見どころというか、大体の方が訪れる理由は武田家終焉の遺跡を見に来ることだと思います。では、それらをご紹介します。まずは生害石からです。
生害石とは自害をすると決めた石のことです。つまり、勝頼公、北条夫人、勝頼公の嫡男で第21代甲斐武田当主武田信勝(のぶかつ)公の3人はそれぞれこの石で自害したというわけです。結構リアルな遺跡です。
亡くなった家臣の位牌や遺品などが納められている甲将殿の裏に勝頼公、北条夫人、信勝公の墓と言われる供養塔があります。1775年(安永4年)に11代目住職により造立されました。
この没頭地蔵尊とは、首の亡くなった勝頼公ら3名の遺体を埋めた場所と伝わっています。ということは、首以外の骨が現在もここに眠っているということになります。
ややヘビーな話ばかりでしたが、こちらが本殿でこの裏には小さな庭園があります。
当時の出来事に思いを馳せながら境内をめぐる中で少し気の休まる空間でした。
またヘビーに戻ります。w 実際の水場は撮りませんでした。水場な上に首洗い池ですからさすがに撮るのは気がひけました。いずれにせよ書いて字のごとく、勝頼公父子の首を洗った場所のようです。これは景徳院の入り口横にあります。
さて最後に、勝頼公、北条夫人、信勝公の「辞世(じせい)の句」を載せて終わりにしたいと思います。辞世の句とは「この世に別れを告げる際によむ人生最後の句」のことです。自分の人生を振り返ってよむものです。
武田勝頼公 「おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端」 (ほのかに雲がかかって朧(おぼ)ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える) 享年37歳
北条夫人 「黒髪のみだれたる世ぞはてしなき 思ひに消ゆる露の玉の緒」 (黒髪が乱れるかのように果てしなく世は乱れ、あなたを思う私の命も露のしずくのようにはかなく消えようとしています) 享年19歳
信勝公「あだに見よ誰も嵐の桜花 咲き散るほどの春の夜の夢」 (はかないと見よ誰もが嵐の中の桜の花のようなものなのだ 咲いて散るほどは春の夜の夢のようだ) 享年16歳
以上、山梨武田史跡巡り〜武田家終焉の地②「武田勝頼公最後の地 景徳院」〜をご覧いただき、ありがとうございました。