大友宗麟と対話する特別なひとときを、独り占めできる、贅沢な時間を過ごせる場所

皆さんこんにちは。
今日は、大分市の神宮浦公園をご紹介します。
ここには、「南蛮貿易場跡」と、「大友宗麟像」があります。大友宗麟公の見つめる先は海。別府湾の広大な海原です。
大分市と別府市を結ぶ国道10号線を別府方面に向かうと、左手にポツンとあります。

あまり人は来ないし、正直観光地というよりかは記念碑ですね。
何故ここに、こんな記念像があるのか。
ここはかつて豊後の国(大分県)で行われていたポルトガルやスペインとの貿易、南蛮貿易の跡地です。厳密にいえば実際の貿易場はここではありませんが、埋め立てたり道路が作られたりしたので、建てる場所はここに落ち着いたのでしょう。
大友宗麟は晩年、クリスチャンになりました。これは大友宗麟を示す宗教的なシンボルでしょうか。
洗礼名は「ドン・フランシスコ」。薫陶を受けたフランシスコ・ザビエルからとったのでしょう。
大友宗麟は若い時から家督争いに巻き込まれ、外にあっては強者ぞろいの九州武士や山口県の大内氏等との戦を戦い抜きました。
有能な家来に恵まれ、一時期は福岡の博多を含む、九州の最大勢力となりました。

しかし、これは大友宗麟の魅力の一つでもあるのですが、信長等のように覇道を地で行くような大名ではなく、絶え間なく続く争いの中でどこか安らぎを求めていたと思われます。

異国の地から来たポルトガルやスペインの宣教師と交流し、さらには布教の許可を与えました。教会、住まいを提供し、ポルトガル人のお医者さんには医療施設を作ったりしました。なお、そこでは国内初めての外科手術が行われています。

一時期、豊後の国はイエズス会の日本拠点本部となり、宣教師養成学校である「コレジオ」が建てられました。信長のいる安土にも同様の学校「セミナリオ」がありますが、コレジオはこれより格上です。
宣教師たちの信頼は相当なものというのがうかがえますね。これはそのままポルトガルやスペインという国の、日本への評価にもつながったでしょう。
宗教改革で生まれたプロテスタント勢力におされ、アジアに布教の地を求めたカトリック教徒には、まさに希望の光。
そういう意味では宗麟の功績はもっと評価されて然るべきかもしれません。
もともと、ポルトガルの宣教師が大分市の沖の浜に漂着し、それから大友宗麟と彼らの交流が始まりました。
大友宗麟は彼らが数人で奏でる音楽が気にいったそうです。恐らくは今でいうクラシック音楽でしょうか。
ポルトガル宣教師はこれを「ムジカ」と説明しました。ポルトガル語ですが、英語では「MUSIC」。音楽という意味です。
クラシック音楽は、現代の私達が聞いてもその壮大さに感動します。戦に明け暮れた彼の心をどれだけ癒したか、はかりしれません。

そして大友宗麟は、最強の呼び声高い薩摩の島津氏との戦に臨むことになります。最大領土を獲得し、準備も万端。九州は、織田信長でも統一出来なかった土地です。ここで島津氏を制することが出来れば、戦国大名の筆頭の一人になるでしょう。

宗麟は家来に言います。以下は、様々な小説や文献を見てきた私なりの要約です。
大友宗麟はこう言いました。

(要約)
この戦に勝ったら、私は日向(宮崎県)にキリスト教の王国「ムジカ」を建国して、移住する。そこに神の国を作るのだ。
残念ながら島津氏に敗北し、ムジカの建国はなりませんでした。そして貿易地である沖の浜は、大地震により海の底に沈んでしまいました。

宗麟は豊臣秀吉に救援を求め、秀吉の軍勢島津氏に勝利。宗麟の領地は、最後は豊後国のみとなりました。

別府湾を見つめる宗麟像。どのような思いで戦国の世を生きたのでしょうか。勿論それは誰にもわかりません。
しかし、その空白を自分の思いで満たしながら思索する。そんな時間も悪くありません。
■施設情報
神宮寺浦公園
大分県大分市勢家町4丁目844-1
【バス】JR大分駅から約10分「春日浦」下車。徒歩約2分。
【車】大分駅から徒歩約10分
【徒歩】大分駅から約30分
【駐車場】なし