ついに甲府五山も最後となりました。最後をかざるのは「法泉寺(ほうせんじ)」になります。
法泉寺は1330年に甲斐国主であり武田家7代目当主の武田信武(のぶたけ)公が、月舟周勲を招いて創建されました。この武田信武公は信玄公から数えると9代も前の方になります。
山門からの眺めは裏の山を背景に絶妙な雰囲気です。
甲府五山の証もしっかりと。
この鐘楼門は江戸時代初期に作られたようです。中につり下げられた銅鐘は明治時代の廃仏毀釈により取られたのち、近年新たに鋳造したものです。廃仏毀釈とは「仏教を排斥する運動や風潮」のことです。
本堂の眺めは最高ですね。
境内に「金剛不動石」と呼ばれる石があり、これが法泉寺という名称の由来とされています。
信武公の菩提寺となっただけでなく、信玄公の時代に甲府五山に認定され、寺領安堵を受けるなど厚い庇護を受けました。こちらは信武公の墓です。
そして何よりこのお寺の一番の見どころは、「武田勝頼公の墓」です。
敷地内右手から大きく生えているのがその山桜です。
1582年の織田信長による甲州征伐にて武田家が滅亡すると、当主武田勝頼公の首は京都の六条河原にさらされました。これを知った等寺3代目の快岳禅師は、妙心寺の南化和尚の力を借りて、その首級とも歯髪とも言われるものをもらい受け、この寺で厚くて葬ったということです。
このお寺のホームページにこばなしがあったので、引用させていただきます。
法泉寺ばなし
この寺に「首級牛蒡」という話があります。これは勝頼公のご首級と法泉寺にまつわる伝え話です。
天正10(1582)年、勝頼公の首級は京都六条河原にさらし首となりました。これを伝え聞いた法泉寺三世の快岳禅師は、むごい処置を悲しみ、直ちに京にのぼり、密かにご首級を奪って鄭重にご供養申し上げようとしましたが、織田軍の警戒が厳しく目的を果たすことができません。
そこで、当時妙心寺におられた南化和尚に相談したところ、和尚の力添えでようやくご首級をもらい受けることができ、妙心寺で鄭重な葬儀を営むことができました。
しかし、快岳禅師は、勝頼公のご首級はその故郷である甲斐国に葬ることが至当であると考え、密かに甲斐に持ち帰って来ました。
ところが、当時法泉寺は織田勢の陣所になっていたので、ご首級を持ち込むことができず、やむを得ず上帯那の三上家を頼っていきました。しかし快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来に追われ、あやうくご首級が見つかりそうになったので、禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へご首級を隠して難をのがれました。その後、禅師は山奥の大馬籠という昼もなお暗い栗林の中へ仮の庵を建て、これを信向庵と名付け、ご首級をお守りしながら時節の到来を待っていました。
やがて本能寺の変の後、織田勢が引き払ったことを確かめた禅師は、急いでご首級を寺に移し、境内に鄭重に葬ったのです。これが現在「勝頼公首塚」と呼ばれている場所といわれています。
三上家ではこの伝えをもとに、毎年正月二日に法泉寺を訪れて寺の縁の下に牛蒡の束を投げ入れてから新年の挨拶をするようになり、これを「首級牛蒡」と呼ぶようになりました。
この寺に「首級牛蒡」という話があります。これは勝頼公のご首級と法泉寺にまつわる伝え話です。
天正10(1582)年、勝頼公の首級は京都六条河原にさらし首となりました。これを伝え聞いた法泉寺三世の快岳禅師は、むごい処置を悲しみ、直ちに京にのぼり、密かにご首級を奪って鄭重にご供養申し上げようとしましたが、織田軍の警戒が厳しく目的を果たすことができません。
そこで、当時妙心寺におられた南化和尚に相談したところ、和尚の力添えでようやくご首級をもらい受けることができ、妙心寺で鄭重な葬儀を営むことができました。
しかし、快岳禅師は、勝頼公のご首級はその故郷である甲斐国に葬ることが至当であると考え、密かに甲斐に持ち帰って来ました。
ところが、当時法泉寺は織田勢の陣所になっていたので、ご首級を持ち込むことができず、やむを得ず上帯那の三上家を頼っていきました。しかし快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来に追われ、あやうくご首級が見つかりそうになったので、禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へご首級を隠して難をのがれました。その後、禅師は山奥の大馬籠という昼もなお暗い栗林の中へ仮の庵を建て、これを信向庵と名付け、ご首級をお守りしながら時節の到来を待っていました。
やがて本能寺の変の後、織田勢が引き払ったことを確かめた禅師は、急いでご首級を寺に移し、境内に鄭重に葬ったのです。これが現在「勝頼公首塚」と呼ばれている場所といわれています。
三上家ではこの伝えをもとに、毎年正月二日に法泉寺を訪れて寺の縁の下に牛蒡の束を投げ入れてから新年の挨拶をするようになり、これを「首級牛蒡」と呼ぶようになりました。
これは法泉寺のホームページでなければ知り得ない情報だったので、ものすごく貴重だなと感じました。
いずれにせよ、勝頼公のなにかしらのものがここに眠っていることは間違いなさそうです。
また、様々な重要古文書に加え、実際に拝見はできませんが江戸時代に描かれた勝頼公の肖像画も所蔵されています。
このお寺は、駅からも他の甲府五山のお寺からも離れているので、別の日程で回られるのもありなのかなと思います。駐車場もちゃんとあります。
では、今回の山梨武田史跡巡り〜甲府五山⑤「法泉寺」〜を持って甲府五山のご紹介は終了です。ここまでご覧いただきありがとうございました。