さて、武田義信紀行第3回目は、前回ご紹介した白山城跡のすぐ近くにある「武田八幡宮(たけだはちまんぐう)」をご紹介します。
この武田八幡宮は、嵯峨(さが)天皇の勅命(ちょくめい)により創建されました。勅命とは、天皇の命令のことです。
最初、822年(弘仁13年)、大分県の「宇佐(うさ)八幡宮」を勧請(かんじょう)し、859〜876年(貞観年間)には京都の「石清水(いわしみず)八幡宮」の分霊を勧請したと言われています。
勧請とは、神社の分身や分霊を他の地に移して祭ることです。
そもそもことの発端は、今からおよそ1200年前に、弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい)がこの地へ来た際、八幡神(やはたのかみ/はちまんしん)という武運の神様が現れて、「我をこの地に祀れば、国家は安泰になる」というお告げを聞き、京に帰ってそれを嵯峨天皇にお伝えしたことに始まります。
本殿までの途中には二ノ鳥居があり、車でこの下をくぐってまっすぐ進みます。このニノ鳥居、県の指定文化財となっています。信虎・信玄公の時代に再建され、江戸時代に何度か再興されているようです。
こちらは、随神門(ずいしんもん)と言います。随神門とは、神域への入り口で、入り口の左右には剣と弓を持つ神像が祀ってあります。
以前来たときにはなかった気がするのですが、知らぬ間にパワースポットに認定されていたようです。キャメレオン竹田という方によってw
参道からは神楽殿が見えてきます。
さらに奥に行くと、いよいよ拝殿がお出迎えします。
そして、拝殿の裏には本殿が。ただ、横からしか見れません。こちらも信虎・信玄公の時代に再建されたもののようです。令和元年には40年ぶりの屋根葺き替えを行ったということで屋根がとてもキレイに整っていました。
そして時は流れ、1140年(保延(ほうえん)6年)龍光丸こと源信義公がこの八幡宮の神前で元服し「武田太郎信義」と名乗りました。ここから甲斐武田氏が始まります。
信義公がこの武田八幡宮を氏神としてからは、武田氏により厚く庇護されるようになりました。
本殿の左を少し登って行くと、「為朝神社」があります。この神社には源為朝が祀られています。
源為朝(ためとも)とは、平安時代後期の武将で、源頼朝の父、源義朝(よしとも)の弟にあたります。頼朝の叔父ですね。保元(ほうげん)の乱という政治闘争が起きて敗戦したのち、伊豆大島に流されました。勇猛で弓に優れていたと言われています。
この神社は、武田信義公が1185年(元暦元年)に社殿を建立して為朝を祀ったことに始まります。伝説では為朝は伊豆大島の島流しののち、鬼二匹を従えて信義公の元に身を寄せたと言われています。
中に安置されているこの木造を見ると、鬼を2、3匹軽くひねり潰しそうな気がします。w
話は逸れましたが以前、塩山の「菅田天神社」の回で、菅田天神社は格式が高いので神官が甲府の府中八幡宮への参勤が免除されていたと書きましたが、ここ武田八幡宮も同様に神官の参勤が免除されていました。
それとこの神社で見逃せないのが「武田勝頼公夫人願文」です。
北条氏康の娘で「北条夫人」と呼ばれたこの女性は、武田勝頼公が長篠の合戦で大敗北し外交戦略を変更した際、相模の北条家から嫁いできた勝頼公2人目の正室です。
そして武田家が滅亡に向かう中、北条夫人はこの武田八幡宮に武田家安泰の願文を奉納しました。その内容は以下の通りです。
ここに思いもよらぬ逆心が新たに出現して、国家を悩ましております。そこで勝頼が運を天道に任せて命を顧みずに敵陣に向かっております。それなのに、付き従うべき士卒が利益を得ることがないので、その心がまちまちとなっております。どうして木曾義昌ははっきりとした神の御心を無視して、哀れなことに肉親の父母を捨てて謀反の兵を起こしたのか。-(中略)-そもそも勝頼にどうして悪心がありましょうか。思いの炎が天に上がり、瞋恚(しんい/怒り恨むこと)はさらに深いでありましょう」。妻である私もこの武田八幡宮にあって、夫とともに哀しみます。涙がまたハラハラと落ちてまいります。-(中略)-悲しいことです。神の御心に真実があるならば、運命がこのような時となるに至っても、願わくば霊神が力を合わせて、勝利を勝頼の一身に付けさせなさって、仇となる力を四方に退けてください。兵乱となったことがかえって天命を開き、寿命が長遠となって子孫繁昌となることを。右の大願が成就したならば、勝頼も私もともに社壇を自ら磨き立て、廻廊を建立することを、敬って申し上げます」(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)
この願文を奉納したとき、北条夫人は19歳だったとのことです。そして、この14日後、新たに築きつつあった新府城(しんぷじょう)を焼き払い、岩殿城(いわどのじょう)の小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼って落ち延びることになります。なんとも切ない。
その後武田家が滅亡したのち江戸時代に入っても、武田八幡宮は徳川家から厚く庇護をうけたそうです。家康は武田家に関わる自社を大切にしています。
武田八幡宮のある場所は、平地より少し登るので結構見晴らしがいいです。それに、境内に流れる神域のエネルギーがひしひしと伝わってきます。キャメレオンはそんなところからここをパワースポット認定したのでしょうか。
では長くなりましたが、これにて山梨武田史跡巡り〜武田信義紀行③「武田八幡宮」〜は終了となります。ご覧いただきありがとうございました。