ここから「八雲と歩く松江じかん」のツアーの後半に入ります。

※前半の「八雲と歩く松江じかん」役者とめぐる小泉八雲&セツゆかりの地vol.1はこちら

八雲塗本舗 やま本」を過ぎると、松江大橋とともに松江のシンボルの1つである大橋川に着きます。
大橋川は宍道湖から鳥取方面の中海へと流れる川で、この川のほとりには古くから多くの商家が並び、水運を利用して盛んに商売が行われてきました。

その大橋川の北側にある「大橋館」は、小泉八雲が初めて松江に来た際、約3ヶ月ほど宿泊していた旅館 富田旅館があった場所です。

ここから見える明治時代の松江大橋や大橋川の風景、また、早朝に響く米つきの音に始まり、物売りの声、お天道様と出雲大社に向かって拝む人々が打つ柏手の音が幻想的な朝もやの中に広がる音風景に、八雲は心から感動し、ますます日本が好きになったと著書「知られぬ日本の面影」にも書かれています。

この八雲の著書は、現代に生きる私たちにも古き良き日本の風景を思い起こさせつだけでなく、その文章の美しさには読むたびに感動します。
いずれは憂愁のかなたに消えてしまうだろう明治の松江、そして日本思想文化のすばらしさに、日本人よりも価値を見出し、決して忘れてはならない、残さねばならないと強く伝えていた八雲の熱い思いがひしひしと伝わってきます。

こんな貴重な本を残してくれてありがとうと心からお礼を言いたいです。
松江大橋は、松江城下では最も古く歴史がある橋で江戸時代には大橋川にかかる唯一の橋でした。

この松江大橋には「源助柱(げんすけばしら)」という悲しい伝説が残っています。
松江大橋はもともと「カラカラ橋」と呼ばれ竹製でできた細い橋でした。それを松江城が現安来市からこの地に移転したのを機に、もっと大きな橋を架けるべく藩を上げて工事が進んだのですが、激しい大橋川の水流のため工事は難航し計画通りに進みませんでした。

行き詰った末、後は神頼みしかないと決まった策は、神様に捧げもの=生贄(いけにえ)として人柱を立てることでした。
「その日一番最初にマチのない袴をはいた男を人柱とする」ーという残酷な御触れによって、たまたま運悪く選ばれてしまったのが源助さんでした。

こうして源助さんは人柱として橋脚の一部にされたというお話です。
その源助さんにちなんで、松江大橋の中央の橋脚は今でも「源助柱」と呼ばれ、橋のたもとには供養碑が建てられています。

ドラマ内でも登場したこのエピソードは、実は真偽のほどは不明らしく、工事の際に殉職された方の話がこのような逸話になって残っているとも言われています。できればこちらを願いたいものです。
次にやってきたのは大橋川のたもとにある山口薬局、当時の「山口橘泉堂」です。
明治の松江で舶来物のビールを買おうと思えばこの店だったようです。
八雲が住んでいた富田旅館=現大橋館からは、大橋川の橋を挟んで徒歩1、2分なので買い物には便利な場所だったことでしょう。

周りの近代的なビルの間に、時代をさかのぼるような木造の山口薬局の佇まいはかえって目を惹きます。
現在は主に街の博物館であり、古い薬瓶の他に手作り雑貨がところ狭しと並ぶ雑貨屋さんです。
山口薬局の方は、朝ドラ放送以来、急に来客が激増していると驚いておられました。この日も多くの方が訪れ、お店の中はいっぱいでした。
当時の宣伝用ののぼりにビール好きな八雲が描かれています。
ここから再び、カラコロ大黒に戻り、ゴールのカラコロ広場へと向かいます。

カラコロ大黒に祈願したセツさんの願いが届いたようで、カラコロ広場にて八雲がプロポーズをし2人はめでたく夫婦となりました。
しかし、明治時代のしかも山陰のような田舎での国際結婚は非常に珍しく、周囲の反対は大きかったようで、ここからもまた苦労は続きそうです。

ちなみに、八雲とセツは191組目の国際結婚カップルでした。
ツアー参加の記念に、八雲さんから缶バッチをいただきました。

「あげそげばけ」とはこちらの方言による造語で、あげ=そうそう、そげ=そうそう、その通りというような意味があります。「ばけ」はドラマのモチーフの1つである怪談にも通じる「化ける」です。

松江観光協会のサイトによると、松江をアゲていくこと、不要なものを削いでいくことで変化していく、「あれも、それも、ばけるよ。」という意味』から作られたと書かれていました。
以上で「八雲と歩く松江じかん」は終わりです。
ドラマに登場する八雲とセツのゆかりの地を1時間でめぐれる楽しいツアーでした。
八雲が松江で過ごした期間はわずか1年3ヶ月ほどでした。しかし、その短期間に彼が残した大きな功績は、現在まで、そしてこれからも松江にとってかけがえのない宝物として大切にされ未来に引き継がれていくことでしょう。